あの時授かった教訓は生きているか
東日本大震災から9年。もう9年も経ってしまったのか、という感覚。自分の中でかなり記憶が薄れてきているように感じる。
大学生の時に、宮城県を中心とした復興支援ボランティアに携わっていて、ほかにも岩手や福島なども訪れ、現地の方々とお話ししたり一緒にボランティア活動をしたり、そんな価値のある経験をさせてもらった。
その経験も、少しずつ風化していく。記憶のピースがぽろりぽろりと落ちていく。人間のつくり上、仕方ないことではあるけども、やっぱり嫌なので何か書き残したいと思って書いている。
「家族親戚や身近な人との繋がりが大事や」
東北で出会った方々とお話ししていて、よくそう言われた。いざとなったときに力を発揮するのが家族や地域コミュニティだと。
何かあったときに頼るのはまず家族だから常に連絡を取れるようにしておいたほうが良い。
また、隣近所の人の顔を知っているだけで、不審者に気づけるなどの防犯的な役割や、周辺の人物の孤独死に気づくきっかけになったり、有事の際に相手を疑うことなく手を取り合ったりすることができる。
まさに、東北の方々が身をもって教えてくれた教訓である。
でも、現代だとどうしてもこの地域コミュニティは希薄化が進んでいるらしい。核家族化とか、人口集中による過密・過疎の二極化、共働きの増加などなど、理由はたくさんある。
東京の都会とか、大規模ベッドタウンをイメージすれば、まあ地域とのかかわりは薄そうだよな、と住んでなくても想像はつくと思う。
少し前までは新横浜の周辺の住宅街に住んでいたけど、地域の人々にふれあう機会は皆無だった。自治会とか地域のお祭りとか、そういった枠組みを近所で見かけたこともなかった。
地域コミュニティがないのは、ある意味楽だった。町の草刈りも、清掃活動もないし、過度な地域との付き合いで時間を削ったり気疲れすることもない。
東北で学んだ教訓が、頭の中から消えかかっていた。
住民としての責任
話は変わるけど、今は教育について学んでいる。いじめや不登校をはじめとした子どもの問題への対処についての話がたくさん出てくる。
突然だけど、あなたは電車の中で走り騒ぎ回っている他人の子どもをその親の前で注意することができますか?
この問いの答えが、昔(昭和くらい?)と比べて変わったところなんじゃないかと思っている。
ちなみに僕の答えはノーだ。他人だから知ったこっちゃない。
もはや周りには、直接注意しないくせに「親がおかしい」「めちゃ迷惑」ってSNSで投稿する人もいたりするだろうな。
まさにこれが、現代の問題なのではないかと思いはじめている。
地域の人々とかかわり合うことがなくなれば、なおさら見知らぬ他人ともかかわろうと思わなくなる。かかわることが異常だという雰囲気にさえなる。(東京の都会でひしひしと感じた)
それは間違いだとわかっていても、関係なければ知らん顔。触らぬ神に祟りなし、だもんな。
そうすると、親は子どもへのしつけが間違っていても指摘されない。親も間違いを正してもらう機会がない。
無論、子どもは自分の行動が間違いと思わずに生きてきて、結果的にその間違ったしつけが正されるのが幼児保育や学校に求められ、保育所や学校がサービス業態化しているのではないか。
上記は少し盛って書いているが、ただ子どもが強く正しく育つには、住んでいる地域と向き合うこと、そこで生まれるコミュニティ(人々の関わり)が不可欠なのではないかと思う。
人は人に育てられる、それゆえ地域というコミュニティが子どもを育て、もっと言うと子どもだけでなく地域自体をよりよくするものになるのかなと。
自分の住んでいる地域に対しての責任、いわば「住人としての責任」をもう少し持つべきなのかなと思った。現代は、他人任せすぎる気がしている。SNSを見ていると、そう感じる。
ただ、自分も偉そうには言えない。自分も自分に言い訳して他人には極力かかわらないでいる一人だし、書いておきながら自分が嫌になっている。
でも、今東北での経験を振り返ったら、あの時東北の方々が教えてくれた教訓は日々の暮らしや有事の際だけではなく、もっともっと深い社会の問題を解決する力を持つものなのかもしれない、と思った。
思いつくままに書きなぐってしまって論点もわからない文章になっているが、基本的には、授かった教訓を忘れかけた自分への戒めの文章です。俺乙。
でも自分が今学んでいることが、過去に経験したこととつながっているのかも、と思った。これだから勉強は大事、坂東は英二。
このストレス社会、ジョイマン高木さんのユルさは大事。坂東はやっぱり英二。
まだまだ、たくさんあるんだろうな、仮設住宅。
自分の目で確かめたい。
サポートいただいても自分ではうまく活用できなさそうなので、もしいただいたら東日本大震災等の災害ボランティア活動団体に寄付させていただきます◎