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高齢社会を乗り切る舵きりは早い方が良い。場外乱闘シリーズ2

行動を変容することは難しい。
思考や行動を変容するということは、自分の価値観を変容させることである。
変容とは、例えば、女性であれば、子どもを身籠もったときに経験する。妊娠による身体に起きる異変は非常につらく、苦痛を伴うものである。
けれど、新しい命のため、その変化を受け止め、身体の異変に、心を順応させていく。それが、『変容』という概念に最も近いと思う。

ここ数日、今後の介護支援事業をどうしていくかについて考えていた。
今回の感染問題により、人口動態が変わってしまえば、この考察は違ってくるかもしれない。日本の未来を考える上で、社会保障とはどんな位置づけになってくるのかを考えることは大切である。
今、自粛により一時的に収入が途絶えてしまった国民へのある意味での社会保障を、未来のための社会保障費よりも優先すべきなのか。本当に消費税率を無くせないのか。比較的元気な高齢者が受ける“予防支援”は今のところ自粛対象外である。介護保険サービスの中でも、微妙なラインだと思う方もいるだろう。高齢社会における社会保障が不要不急であるかについての考察をしてみることにする。

■“予防支援”の必要性

若い人でも3日寝たきりになると筋力が落ちてしまう、という話はよく耳にする話である。

これが高齢者の場合、一週間以上のトレーニングを怠れば、本当に、転がるように身体機能・認知機能は低下していく。認知機能が低下するとどうなるか。そのひとつの症状として挙げるなら、教養は低下しないが、想像力が低下してくる。

例えば、家では椅子から一日動かず、テレビの画面を見て終わるようになる。もちろん筋肉は痩せ、身体機能や自律神経も崩れてくる。それだけでなく、時間軸がずれて曜日が分からなくなり、季節も分からなくなるから、夏なのに冬の格好をしたりといった顕著な症状も現れる。何を食べたのかではなく、食事を摂ったこと・摂っていないことが分からない。数秒前の会話も覚えていられなくなる。

しかし、この様な状況になっても、病気や障害がなければ要支援2、重くても要介護1の認定である。つまり予防支援の対象者であることが多い。規則正しい生活と、機能訓練を続けていれば、身の回りの介護が必要のない状態が保てる段階である、ということだ。自宅で十分生活していける状態である。・・・ただし、機能訓練を続けていればである。
もし、一週間も何もしなければ、次に会ったときには、酷く心身の機能は低下してしまい、別人の様になってしまうことも珍しくない。

「それでも、有事には必要ないんじゃ?」

必要である。これによる効果は、若い世代に介護負担を掛けず、彼らに自由を獲得させるという効果もある。もちろん、それぞれが自分の育った街で、両親や祖父母、親戚の介護をするなら福祉サービスは必要ない。また、かつての日本には、介護が出来ないため“家族としての責任”で姥捨て山という選択をしてきた過去もある。その場合も社会サービスは必要ないだろう。

人権とは、いかにして保たれるのか。
命の尊さは、どんな世界ならば守られるのか。

いつの時代だって、自由の獲得とは、生活の場所と時間の椅子取りゲームの匂いがする。それは、生きていくための嗅覚であって、極々自然なことであるから、昔の日本人の追ってきた責任を、道徳の視点から批判できるものではない。

そして現在――。
自分だけが成功すれば良い時代は、実はとうの昔に過ぎている。
ビジネスで成功するための自由とは、国家の繁栄のために国の政策と共に用意された"自由時間"に過ぎない。

生きていくために家族総出で働く社会であった戦後の貧しい時代が過ぎて、高度成長期が訪れた。そうして私たちは、“自己実現を目指す”社会へと突入し、現在に至る――とまだ信じていたいのだ。

個人は実家のある田舎から都会へ。就職から進学へ。大家族から核家族へ。世帯のカタチはライフスタイルを変え、個人の自由時間が増えた。その自由時間の確保を補う政策、それが、福祉であり、社会保障であって、経済を循環させるための新たなビジネスなのである。

■社会保障は経済を循環させる

所謂、年金とか、介護保険とか、社会保障というものは、決して金銭的な保証が重要なのではない。経済を循環させるために、高齢になっても社会で生活していける環境を保障をするものである。高齢者ビジネスが豊かになれば、福祉サービス以外の民間サービスを利用できる。いかにして健康寿命を延ばし、経済を回していくか、という目的が回り始める。

しばしば、福祉の現場ではトラブルが起こる。それは、福祉を学ぶための教科書に、そう書かれていないからだと考えられる。そもそも福祉を目指す者は、ビジネスには興味はない。人の喜ぶ顔が見たい、そんな純粋な気持ちで挑んで来る。学友の多くはそうだった。

けれど、皆社会人になり福祉の現場に入ると、真実は教科書にはないと学ぶことになる。これは、措置制度の時代が終わった頃には非常に顕著になってきて、私たちは、福祉の概念を脱ぎ捨て、共に行動を変容させなくてはならなかった。教科書通りの慈善事業の様な視点を突き詰めていけば、どうしても壁にぶつかる。そこの矛盾に気づけない場合に、悲しい事故や犯罪が起きてしまうのだ。


このように、現代の社会保障とは、経済の循環であり、生活を維持していくための施策である。今、世界では大変な感染症が流行し、感染拡大防止のため自粛が求められている中、政府がどうしても社会保障の維持のための資金確保を譲れないのはそのためである。不要不急かどうかについては、改めて言うまでもない。止めれば、日本の経済は崩れる。

全ての世代への“社会保障”が単なる政府の施策であり、付属品のように感じているなら、どうか、これが現代の日本における国家経済そのものであると想像を巡らせてみて欲しい。

それでも私たちは、しばしば、今の苦しい状況を俯瞰して、「政府の責任」「何か陰謀がある」などと、目を逸らせてしまいがちになる。また、起きている事象だけを見て、「あの人が正しかった」「今後失敗しないためにはどうすれば」…と、“成功者”や“優秀な人”という存在を創り出し逃避しがちになる。優秀な人が助けてくれるんじゃないか、理想の"本来の生活"を取り戻せるんじゃないかと願ってしまう。

けれど“成功者”や“優秀な人”など、そもそも存在しないし、"本来の生活"なんてものもありはしない。

全ての人は適材適所で才能があり、等しく優秀である。現実に順応していける素晴らしい能力が備わっている。そして今、困難と向き合っている私たち以外に、苦難を乗り越えるアイデアを探し出せる人は存在しない。少子高齢化の時代だからこそ必要なビジネスは数え切れないほどあるのに、勿体ない限りである。これを機に、是非、高齢者が求める社会サービスの創出に乗り出してみて欲しい。

ここで、ようやく本題に。

■高齢社会を乗り切る舵きりは早い方が良い。場外乱闘編2


「場外乱闘編」の続き、70歳以上の高齢者の年齢別の「生き方」については、言葉で説明するよりグラフの方がわかりやすいと思うので、
「生き方」が垣間見えるように作成してまた。

スライド2

介護保険制度が始まった2000年当時の高齢者と、現在の高齢者の教育環境、時代背景を探っていくと、彼らの生きてきた時代の価値観や生き方の違いが見えてくると思います。

スライド3


軍国主義の厳しい教育のもと、組織の中で培われた価値観と、戦後の教育制度が整わない中で自己のアイデンティティを再構築する必要のあった世代。

今、彼らの心に届くサービスがどのようなものなのかを考えることが、彼らの経済を循環させることに繋がります。今、外出自粛の中、機能訓練が欠かせない彼らにとっての必要なサービスとは何か。どの年代に、どんなビジネスの展開が可能かどうか、きっと見つかるはず。

切れ目のない社会保障とは一言で言えても、これだけ価値観の違う年代のズレは、今の高齢者福祉サービスのカタチも変えて行く必要があるということであり、そのニーズの把握には厚生労働省も苦労しているはずである。

前回お話した、基準緩和型サービスが使われていないことの理由としては、この辺が関係していると思います。今こそ、アイデアを必要としています。70歳から75歳、75歳から80歳、彼らのニーズの把握が、切れ目のない社会保障の課題を解決する鍵となります。

ぜひ、みなさんのアイデアを!

次回の「高齢社会を乗り切る舵きりは早い方が良い。場外乱闘編3」は、恥ずかしながら、私が考え、先日のムーンショットに応募したアイデアを公表いたします。

無茶苦茶なアイデアであることは承知の上ですが、65歳以上の高齢者全員の健康維持が可能なプランです!
はい、勿論落選いたしましたが。

※弊社の方針とは関係のない、あくまでも個人的なブログです



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