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失いたくない命を助けに行った行動は、誰にも否定できない。

「おはしも」という安全教育の、とくに避難時のセオリーは大切なものだろう。
“押す(お)”と将棋倒しなどの二次災害の可能性がある。
“走る(は)”と転倒し、大きな二次災害に結びつく可能性がある。
“しゃべる(し)”と、先生の指示が聞こえず、適切な避難ができなくなる可能性がある。
“戻る(も)”と、自らも災害に巻き込まれ、命を失う可能性がある。

たしかにどれも、「可能性」はある。
しかし、そのような可能性があるから、どれもしてはいけないと、教えてしまってもいいのだろうか。

我が子を火災現場や水難事故現場に「戻り」、大切な命を救い出した例は数多くある。
その人たちの、絶対に失いたくない命を守ろうとした行動を、誰も否定できるものではないだろう。
しかし、今の学校での安全教育(指導)には、それを否定することを前提とした、いや、否定はせずとも「不正解である」という教え込みがある。

そのような教え込みではない安全教育について、ぼくがかつて実践した授業について紹介しようと思う。

命の避難訓練 〜火災編〜

子供たちは、火に対して潜在的な恐怖心はあるものの、実際に起こりうる「災害」に対する認識は低く、その認識の低さが、実感を伴わない避難訓練に結び付いていることが考えられる。
安全教育において意識しておくべき点は、そのほとんどが実体験の伴わない学習だということだ。
しかし、より実感に近い体験活動を行うことは、安全教育において必要不可欠であり、そこから児童は実感を持って安全について思考し、いのちの尊さに向き合うことができる。

そこでこの授業では、スモークマシンを使用して火災発生時の煙体験を取り入れることにした。

授業は、ぼくが当時担任していた4年生のクラスを対象として行った。
授業の冒頭で、以前に抜き打ちで行った避難訓練の様子を映像で観た。
子供たちは、自分たちの避難訓練の様子を楽しそうに見ながら、「少しふざけている」「笑っている」などの感想を言った。
そしてぼくは、「避難訓練は必要か」と子供たちに問いかけた。
すると、39名のうちで、「避難訓練はするべきだ」という立場をとった児童は27名で、「避難訓練は必要ない」という立場をとった児童は12名だった。
とくに、「必要ない」と言った子供たちの考えは、「言われたままにしているだけで、実際の災害時に役に立つとは思えない」という考えが多かった。
そして、いよいよ体験の場面に入った。

ぼくは黒板に、以下の文章を書いた紙を貼り、読み聞かせた。

火事です。火はそれほどでもありませんが、煙が立ち込めています。
家の中には、「大切で失いたくない(   )があります。あなたはそれを取りに(助けに)戻りますか?戻りませんか?


そしてまず、(  )の部分、「大切で失いたくないもの」を個々に考えさせた。
ぼくはゲームなど、子供らしさを感じさせるものを予想していたのだが、意外にも子供たちは、「親」「兄妹」「ペットのカメ」など、命あるものを( )に当てはめていた。
この時点ですでに子供たちは、「火事とはいのちを奪う可能性のあるもの」として捉え、45分の授業の中で立ち向かおうとしているようにぼくには感じられた。
そして、自分の行動を判断、選択させ、黒板にネームプレートを貼りに来させた。
戻る」を選択した子供は15名、「戻らない」を選択した子供は23名だった。
「戻る」という意思表示をした子供たちは、「大切なものを失いたくない」や、「まだ火は小さいから」という理由を述べた。
この時点では、児童は火災に対する恐れは持たず、「大切なものを失いたくない」という道徳的な感情によって判断していると言える。    

そしてその直後に、スモークマシンによる煙体験を行った。
煙をたいておいた別の教室に子供たちを誘い、教室の奥に置いた紅白の玉入れ用の玉を、「大切なもの」に見立てて取ってくるよう指示した。
子供たちは不安そうな表情、興味津々の表情をしながら、前日に体験したぼくとやはり同じように、ハンカチを口と鼻に当てたり、ハンカチを持っていない子供も、何を言わずとも制服の袖を口や鼻に押し当てた。
5人ずつ煙をたいた教室に入れたのだが、子供たちは入るなりすぐに身をかがめ、小さくなって這うように前進していた。
そして、奥まで行くことができずに途中で諦めてしまった子供もいれば、取ってくるべき玉を間違ってしまった子供もいた。
しかし一様に、煙に対する感覚を変容させた様子が見られた。
全員が煙体験をして教室に戻った。
小さな声で口々にその衝撃や感想を言っていた。
そしてぼくは、もう一度聞いた。
「戻る」か「戻らないか」と。

「戻る」と選択した子供は、体験前の15名から、6名に減った。
「やっぱり無理だ」と感じた子供が大半だったのである。
減ることは予想していたが、まだ「戻る」と意思表示した子供が6名いたことに注目した。
理由を尋ねると、

「あれぐらいの煙の量と距離なら、大切なものを助けに戻る。失いたくない」

と答えたのだ。

 戻ってはいけないのか

この授業は公開授業だったので、子供たちの下校後に協議会が行われた。
ぼくが授業の趣旨やこれまでの学習の流れなどを説明したあと、協議に入った。
そのとき、「◯◯県から来ました」と言われた年配の先生が、このような意見を言われた。

この授業は失敗だったのではありませんか。最終的に、6名の児童にも戻らないと指導すべきだったのではないですか。でないと、安全指導にならない

とてもありがたい意見ではあったが、これまでの典型的な安全指導観であると感じた。

はたしてこの授業で、全員が「戻らない」と言うように指導すべきだったのだろうか。
「戻る」と判断した6人の子供たちは間違っていたのだろうか。
それは、それぞれの子供たちが、火災に対する知識を学び、煙の体験から火災への恐怖を実感し、その上で下した判断なのだ。
その子供は、自己の「もっとも適切だ」と感じた判断で行動し、その結果、「大切で失いたくないもの」を失わずに済むかも知れないのだ。
「戻る」と意思表示した児童は言った。
「あの煙だったら、息を止めてでも大切な妹を助けに行く」
この子供の思いに対して、だれも「間違っている」とは言えない。それでも「戻ってはいけない」と教え込むことが、はたして安全教育と言えるのだろうか。

「戻らない」という教えは、安全指導で行う。
これは当然大切な教えであり、火災から身を守る上でのセオリーではある。実際に、火災や水難災害で、助けに戻って命を失った人も少なからずいる。しかし、それは個々の判断であり、その結果なのである。助けに戻ることができると判断し、大切なわが子の命を守り、幸せに暮らしている人も多くいるのだ。

これまでの安全教育は、セオリーを教え込むことに終始してきた。
そのセオリーが現場で、いざというときに大いに知識として役立つことはあるだろう。
しかし、東日本大震災をはじめ、これまでの多くの事件や災害は、「想定」では防ぐことができなかったことを、ぼくたちは見てきたのではないか。
これからの安全教育は、そのとき、その場に応じて知識や体験を活用し、「そのとき、もっとも適切な判断をすることができる力」を養うものでなければならない。
感情や道徳的な判断だけで助けに戻り、子供たちが将来、命を失うことになってほしくはない。
一方で、「助けに戻ってはいけない」という教えを押し付けるだけでは意味がない。
命を守る力は、単なる知識ではなく、様々な場面で臨機応変に対応することができ、子供たちの、生涯にわたる安全・安心を保障していくものでなければならないと、ぼくは考えている。


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