教訓と風化
前回、2005年に発生した教師殺傷事件について、教育行政で話を聞いた内容について書いた。
今回は、その後取材することができた、事件当時、行政で事件に関わった人物から聞いた話について書こうと思う。
それは2015年の、まだ春の訪れが待たれる寒い日だった。
ぼくはその人物(K氏としよう)と夜のファミリーレストランで会った。
K氏は、犯人の少年が中学校1年生のとき、担任ではなかったが同じ学年の担当教員だったそうだ。
そして少年が中学校を卒業し、17歳になって事件を起こしたときには市の教育行政に所属しており、事件の関連で奔走したという。
ぼくはもちろん、事件の当事者ではない。
事件の側にもいなかった。
しかしK氏のように、中学生のときの少年をそばで見ていて、その数年後に教師を刺殺する犯人になったと知ったとき、やはり近くにいた者として、その少年の教育に携わった者として受けた衝撃は計り知れない。
夜のファミリーレストランで、K氏は時折苦渋の表情を浮かべながら、そしてときには少し興奮したように声を大きくしたりしながら、2時間ほどのインタビューに答えてくれた。
K氏は、この事件の裁判をすべて傍聴したのだという。
それは、当時属していた教育行政の職務としてではなく、一個人としての強い関心と行動だったという。
そのようなK氏の話は、とてもリアルなものだった。
そして当時、行政側にいた者として、10年たってもやはりその立場(行政として)で事件を捉えているという一貫性があった。
ぼくが、
“なぜ市は、事件のことを教訓として発信しないのでしょう。”
と問うと、K氏は即答した。
“事件を前面に出すことはあり得ない。
なぜなら、犯人は卒業生なのだから。
市の教育の結果なのだから。
市の教育の、汚点だからです。”
そして、すこし興奮したようにこう言った。
“今の子どもたちに、どう伝えればいいのですか。
「この学校の先生が、刺されて死んだんだよ。刺したのは、君たちの先輩なんだよ」とでも言うのですか。”
そしてK氏は、遺族と市の教育行政との関係についても語った。
実はこの遺族とは、亡くなった教師の配偶者であり、そして同じ市の小学校教師でもあった。
遺族は事件後も市の小学校で勤め続け、その後定年を迎えて退職した。
K氏は、市の教員であり続けた遺族について、このような話をした。
“奥様は、教育委員会との関係や市の教員として、がまんされたのではないか。
この先(事件後)も市の教員として生きていく上で、がまんしたのではないか。”
そして、K氏はこう言った。
“どうにか、奥様が何も言わない日々を過ごし、何も触れずにここまで来たのに、事件から10年目と騒いで、奥様の遺族としての感情に、だれがわざわざ火をつけようとするでしょう。”
事件を発信しようとしない、一切の取材を拒否する教育行政の姿勢は当然であるという見解だった。
そしてK氏は最後に、次のような話をした。
“あの事件以降、全国の小学校にインターホンがついた。
他市で学校のインターホンを押すたびに思う。
ここにも、事件の教訓が生かされていると。”
事件のことを前面に出し、発信しなくとも、形となって教訓として生きているだろうと言いたかったのかもしれない。
ぼくはK氏の話を聞きながら、犠牲となった教師が残した教訓は、あらゆるところで「生かされている」ことを改めて感じた。
そうであれば、「寝た子を起こす」ような捉え方ではなく、堂々と発信すればいいのではないかとも思った。
今は2021年。
学校のインターフォンはどれほど機能しているだろうか。
事件の真相や悲しみは風化するかもしれない。
しかし、その風化は「忘却」ではなく、一つの文化(学校文化)として息づいていかなければならない。
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