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わたしの流儀 (吉村 昭)

 2006年7月31日になくなった吉村昭氏のエッセイ集です。

 吉村氏の小説は、「戦艦武蔵」を皮切りに一時期結構集中して読みました。綿密な史実の調査・集積の濃さ・厚さに基づくリアリティと昂ぶらない筆致が強く印象に残っています。

 このエッセイ集には、いかにも吉村氏らしいと感じられるエピソードが数多く紹介されています。
 まずは、吉村氏の真骨頂である「事実への肉薄」です。

(p38より引用) 翌日の夜明けに眼をさました私は、その文章の一行分が不足しているのに気づいた。
 ボートが「アゾヴァ号」にむかっていた時刻はまだ夜の闇が濃く、町から鶏の声がしきりにきこえていたはずである。いや、まちがいなくそうであったにちがいない。
 私は、朝起きると書斎に入り、「海岸からは、鶏の鳴く声がしきりであった」という一行を書き足した。
(p41より引用) 単行本になって読み返した私は、川路の妻は、まちがいなく「側女」と言ったにちがいない、と思った。
(p136より引用) たとえば、病院にかつぎこまれた多くの悲惨な負傷者の手当てをした後、疲れ切った主人公はどうするか。酒好きの主人公なら、私は酒を飲んだと書き、恐らくそれは百パーセントまちがいないだろう。

 こちらは、日々黙々と執筆に勤しむ吉村氏の実直な人柄の表れです。

(p50より引用) 小説家は一つの作品を書き上げた時、それに満足せず、次の作品こそすぐれた作品にしたいと願う。いわばいつも満足すべき個所にたどりつきたいと、荒野の中の道を一人とぼとぼと歩いているようなもので、作家であると胸を張って言える気にはなれないのである。

 また、自らに正直な姿勢

(p70より引用) 世に名作と呼ばれる作品に少しの感動もおぼえぬ場合、自分の鑑賞眼が低いなどとは決して思わぬことだ。自分の個性とは相いれぬものと考えるべきである。
 島崎藤村の代表作「夜明け前」、夏目漱石の諸作品などは名作として激賞されているが、私の琴線にはふれてこない。私には、他の作家の作品に感動するものが多々あり、それは私の生まれつきの個性なのだから仕方がない。

 そして、何より吉村氏らしいと感じたのが、以下のフレーズでした。

(p21より引用) 書斎の四方の壁には天井まで伸びた書棚があって、書籍が隙間なく並び。床の上にまであふれ出ている。それらにかこまれて、机の上に置かれた資料を読み、原稿用紙に万年筆で文字を刻みつけるように書く。

 「刻みつけるように書く」・・・、いかにも吉村氏その人です。
 自らの流儀を頑なに守り、日々書斎の机に向かう吉村氏の姿が眼に浮びます。


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