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ボクの音楽武者修行 (小澤 征爾)

若き疾走

 ときおり拝見している読書家さんのブログで紹介されていたので読んでみました。
 私自身は音楽系は全く疎いので、小澤征爾氏についても、「世界的にも有名な指揮者」という程度しか知りませんでした。

 本書は、その小澤氏が世界的指揮者としての道に第一歩を踏み出したころの自伝的エッセイです。

 1959年(昭和34年)、小澤氏24歳のとき、スクーター1台とともに貨物船で単身ヨーロッパに渡りました。その後2年あまりの間に、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝、続いてバークシャー音楽センター指揮者コンクールでクーセビツキー賞を受賞と才能を開花させました。その活躍から、バーンスタイン氏に認められてニューヨーク・フィル副指揮者に就任、渡欧から2年半後には日本公演のメンバとして凱旋したのでした。

 本書は、この間のさまざまなエピソードを、著者の当時の気概を映したようなすがすがしい筆致で著したものです。
 先ずは、南仏に到着してからスクーターひとり旅のくだりです。

(p41より引用) スクーターで地べたに這いつくばるような恰好でのんびり走っていると、地面には親しみが出る。見慣れぬ景色も食物も、酒も空気も、なんの抵抗もなく素直に入って来る。・・・音楽に対してもそうだ。自然の中での、人間全体の中での、また長い歴史の中での音楽が素直に見られるようになった。

 小澤青年の伸びやかな若い感性が感じられます。が、そうは言ってもこの渡欧、かなり無鉄砲な行動でもあります。

(p44より引用) そのころは、この先どうやって勉強しようかとか、どのくらいヨーロッパにいられるだろうかなどという計画は皆無だった。どの先生に指揮を習うかということも考えていなかった。・・・後でいろいろな人に聞くと、音楽志望でヨーロッパに来ると、土地の生活に慣れるまでは自信を喪失する人もいるらしい。しかし、ぼくは自然に音楽に親しむことができた。

 そういう小澤青年にとっての大きなチャンスがブザンソン国際指揮者コンクールでした。この成功を皮切りに、小澤青年は欧米の音楽の世界を疾走します。

 その中でのバーンスタイン氏との交流です。小沢青年は、心からバーンスタイン氏が好きだったようです。また、バーンスタイン氏は、巨匠には似つかない?気さくで温かい人柄でした。
 バーンスタイン氏率いるニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団が日本に到着したときの空港での風景です。

(p197より引用) 突然バーンスタインが、ぼくの首っ玉にとびついて来た。ぼくは危うく倒れるところだった。
「セイジ!セイジ!よかったな、よかったな!」
首が抜けるくらいぼくを抱きしめて、そう言ってくれた。ぼくは言葉が出なかった。

 読んでいるこちらまでホントに嬉しくなるシーンです。

美しい音楽・美しい国

 「外国の音楽をやるためには、その音楽の生まれた土地、そこに住んでいる人間をじかに知りたい」という想いで小澤青年は渡欧しました。

 本書に書かれている小澤青年は、次々とまた軽々とチャンスを活かしていきます。(というふうに見えます・・・)
 欧米にいた2年半、そうは言ってもいろいろなことがあったはずです。幸運だけでここまで来たはずはありません。
 もちろん周りの方々の大きな支援・応援があったでしょうし、それにも増して小澤青年自身の努力は並々ならぬものだったに違いありません。

 そのあたりの苦労がほとんど感じられない文章です。が、数多くの手紙のやりとり(ほとんどは日本の両親・兄弟とのものだったようですが)の中に、ひとりで夢に向かって頑張っている小澤青年の心持ちが感じられます。

 この本が書かれたのは、ちょうど私が生れたころです。
 そのころ、小澤青年は、ヨーロッパで、そして日本で、様々な経験をし、様々な刺激を受け、様々な想いを抱いていました。
 パリやベルリンでの音楽を愛する小澤青年の感性です。

(p103より引用) 芸術を愛する人間の多いヨーロッパで、なぜ戦争なんか起こったのだろうか。西独と東独の国境のあのとげとげしい空気はなんだろうか。戦争はまだ終わっていないし、これからも起こらないとはいえない。どうして、もっとこの世には美しい音楽があり、美しい花があるということを信じないのだろうか。

 そして、バーンスタイン氏率いるニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の一員として日本に戻ったときの想いです。

(p200より引用) 東海道の海辺の古い宿屋に泊まった時、バーンスタインが言ったこと・・・
「セイジ、お前は幸福な奴だ。こんなに美しい国で育ったなんて…。それなのになんでニューヨークなどに住む気になったんだい?」
 ぼくも日本を美しいと思わないわけではない。ただ西洋の音楽を知りたくて飛び出して行ったのだ。その結果、西洋の音楽のよさを知り、また日本の美しさも知るようになった。ぼくはけっして無駄ではなかったと思っている。それどころか、今後も日本の若者がどしどし外国へ行って新しい知識を得、また反省する機会を得てもらいたいと思っている。

 その後小澤氏は、62年にはサンフランシスコ交響楽団を指揮してアメリカでのデビューを、また69年にはザルツブルクでモーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」を指揮しオペラ・デビューを果たします。さらに、73年にボストン交響楽団の音楽監督に就任、ベルリン・フィルハーモニーの定期演奏会でもタクトを振っています。

 日本では、98年冬の長野オリンピックの音楽監督として、開会式、五大陸を結ぶベートーベンの「歓喜の歌」合唱でその指揮をとりました。


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