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読書力 (齋藤 孝)

 「本を読むための本」です。
 非常に平易な文章で書かれています。内容は少々「読書礼賛」的ではありますが、著者の言いたいことは明確に伝わってきます。
 私は、齋藤氏とはほぼ同年代なので、ところどころに顔を出す氏の読書遍歴の記述を読むと共通体験として懐かしい感じもします。

 齋藤氏は、「本は読んでも読まなくても良いものではなく、読むべきものだ」と主張します。本を読むこと自体が「コミュニケーション力」をつける手段だという論旨です。

 確かに、読書が、論理的な思考力を高め、語彙を豊富にし、その結果「コミュニケーション力」を高めることに貢献するのは否定できません。が、「読書でしかコミュニケーション力の醸成ができない」とまでは言い切れないでしょう。
 齋藤氏自身も(読書以外に)「コミュニケーション力」を高める方法として「言い換え」の効用を示しています。(この方法は、古典的な「セールス話法の基礎」です)

(p154より引用) この相槌をより高度にしたものが「自分の言葉で言い換える」ということだ。相手の言葉を鸚鵡返しにするだけでも、会話のリズムはよくなる。・・・言葉を換えて同じ内容を言い換えることができれば、相手の言っている内容をしっかり理解しつかまえていることが、相手側にもはっきりと伝わる。

 齋藤氏は、「読書力(何でもかんでも、「○○力」という言い方にメッセージを収斂させるのは、個人的にはあまり好きではありませんが)」を高める方法として、いくつか具体的な方法を挙げています。
 そのうちのひとつが、三色ボールペンを使って「要旨」や「関心箇所」に印をつけながら読む方法です。こういった五感を使った具体的なやり方は実用的です。

(p143より引用) 三色ボールペンで色をスイッチさせていくことが、主観と客観の切り替えや、客観的要約の重要と最重要の切り替えなどを、技として身につけることができる。・・・道具を使うことによって、思考の習慣が身につけやすくなるのである。

 過去から現在に至る「読書の効能」は、現在から将来に向かうメディアの発展過程において多くの代替物によっても得られるようになってきました。
 ただ、そうは言っても、すべてが(読書に)置き換わるわけではありません。読書の意味は決して消え去りはしません。

 従来、「読書」は常識的に「『本』を読む」ということと同値でした。
 が、現在では、「『電子書籍(電子媒体)』を読む」さらには、「インターネット上の『テキストデータ』を読む」ということも「文脈を辿る」という意味では「読書」と言えます。

 ただ、やはり「読書」と言えば狭義に「本」を読むことと考えたい気持ちがします。
 物理的な紙メディアとしての「本」には、知識源としての効用はもちろん、新たなメディアに替え難い利点・効用も数多くあります。簡易性・携帯性・一覧性・保存性・・・、さらには、記憶とか思い出・・・。
 人それぞれの本の「意味づけ」でもあります。


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