見出し画像

不勉強が身にしみる (長山 靖生)

勉強すること

 以前このBlogで新聞記事についてコメントしましたが、同じような話です。

(p130より引用) 「歴史観」は歴史上の事件や人物に対する評価という形を取るとは限らず、年号のような暗記物にまで、深く関わっている。どの出来事を重要視するかという選択自体、歴史観に影響されている。

 歴史の勉強は、ひとつには「史実」を学ぶということですが、もうひとつはその「史実」にまつわる「歴史観」を理解することです。「ここでのこの史実の解釈はこういう歴史観によるものだ」といった感じで理解することが大事だと思います。
 こういう考え方によると「別の歴史観によると同じ史実でも異なる解釈になりうる」ということが当たり前のこととして受け止められるのです。

 「理解する」ことと「信じる」ことは異なります。

(p176より引用) 最新の量子力学などについて「哲学への接近」がいわれるのは、それが一般人の感覚では理解不能な、何やら神秘的な「信じる」領域に見えてしまうからにほかならない。ずばり言ってしまうと、よく分からないから、理性でなく感性で、「信じる」ことでそれを受けとめようとしているのである。
 このようにして「分かる」を諦めて「信じる」に移行するラインが、すべての人間に存在する。誰でもすべてを「分かる」ことができない以上、理解力の限界の先は、他人の説明なり、何らかの世界観なりを「信じて」納得するより仕方ない。

 「信じる」ことは、良い悪いは別にして、ある種の思考停止状態です。「自分の頭で考える」ことではなくなっています。

 「『自分の頭で考える』範囲を拡げること」が勉強することだと思います。「他人の思考」を辿るのは、自分の頭で考えることの手助けとするためです。

右肩上がりの幻想

 最近の日本は勉強しなくなった・・・確かにそういう感じはしますね。私としても、いままでの自分の勉強不足をかなり後悔しています・・・。

(p43より引用) 小・中学校での教育内容を減らしたからといって、人間が一人前になるために学んでおくべきことが減ったわけではない。小・中学校で減らした分は、後でどこかで学ばなければならない。バブル経済崩壊後に、住宅需要を高めようとして、政府は「ゆとり返済」という制度を作ったことがあった。この制度は、最初の数年間はローン返済額を低く抑えるというもので、いわば借金の先送りだった。・・・
 「ゆとり教育」もこれに似ている。
 将来、自主的に勉強したくなるはずだから、小さいうちから無理に詰め込むのはやめにして、個性を磨こうではないか。そうやって好きなものを発見し、それを特化して能力を発揮できるようにする、という思想だ。
 これは人間の学習意欲(向上心)や思想能力の「右肩上がり」を前提にしている。

 この場合、「右肩上がり」の考え方は「先送り」の考え方と同根です。
 何もしないで「右肩上がり」にはなりません。当たり前ですが、何もしないと「右肩下がり」になるのが普通です。世の中は先に先にと進んでいくのですから、何もしなければ置いていかれるのは当たり前です。
 「将来が右肩上がり」というのは全く根拠のないことです。仮にいくら頑張っていたとしても依って立つところが右肩下がり(たとえば、衰退市場であるとか)だと、やはりダメなのです。

 「将来、自主的に勉強したくなるはずだから・・・」という前提も全く根拠がありません。
 「ある年になると、何のきっかけもなくいきなり勉強に目覚める」ということが起こるはずはありません。勉強の必要性を自覚するにもその基礎となる思考基盤や価値観の確立、それらによる判断力の醸成が不可欠です。

 これらの「自分の頭で考えるための基礎力をつけること」こそ本来の初等教育の目的であるはずです。
 せめて、「放っておいても右肩上がりに良くなる」と根拠もなく考えるようなことはなくさなくてはなりません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?