見出し画像

悪意なき欺瞞 (J.K.ガルブレイス)

当たり前の欺瞞

 J.K.ガルブレイス氏(John Kenneth Galbraith 1908~2006)は、ご存知のとおりアメリカの20世紀を代表する経済学者です。
 ハーバード大学・プリンストン大学で経済学の教鞭をとりましたが、その間に、国防諮問委員会・物価管理委員会・その他いくつかの連邦政府の関連機関に従事しました。また、雑誌「フォーチュン」の編集委員やケネディ政権下でインド大使をつとめるなど、幅広い分野で活動しました。

 ガルブレイス氏は、生涯、経済学に関する多くの著作を著しましたが、「不確実性の時代」(1977)に代表されるそれらの著作は、いわゆる学会よりもむしろ広く一般大衆に大きな影響を与えました。それだけ実社会を踏まえかつ時流にマッチした視点を提示してきたのでしょう。

 本書は、そういうリベラル派経済学の巨人ガルブレイス氏が、今日の経済学の通説と現実との溝を明晰に示した興味深い著作です。
 ここでいう「今日の経済学」とは、「市場を万能視する新古典派経済学」です。この「市場万能視の経済学」が企図する社会と現実社会とのギャップをガルブレイス氏は「欺瞞」として露にしていきます。

 まずは、「消費者主権という欺瞞」です。

(p38より引用) 市場経済では消費者が主権を持っていると信じるのは、最も広く行きわたった欺瞞である。消費者をうまく管理し誘導しないかぎり、誰も財やサービスを売ることはできないのである。

 このあたりは、氏に指摘されるまでもなく、多くの企業で認識しているところです。マーケットイン、プロダクトアウトについては、どちらか一方のみでよいということではありませんし、プロモーションの影響力もそれだけが万能というわけではありません。王道ですが、「敵を知り己れを知らば、百戦して危うからず」ということだと思います。

 そのほかにも、たとえば「GDPという欺瞞」にも言及しています。

(p41より引用) 今日なお、人間社会の成熟度を測る物差しとなるのは、お金ではなく、文化、芸術、教育、科学など経済から「隔離」された領域における成果なのである。
 そもそも、この世に絶対的なものはあり得ない。私たちは、芸術、科学を振興し、それらが社会に貢献すること、そして人生の多様な価値と享楽に寄与することを、声を大にして喧伝すべきである。生産者が随意に決める生産額の集計であるGDPのみで社会の進歩を測ること-これもまた小さな欺瞞の一つである。

 こちらは、ガルブレイス氏自身も「小さな」欺瞞と記しているように、GDPだけで社会全体が評価できるとは誰も考えていません。が、そういう素地が新古典派経済学者の論調に見え隠れすることを指摘しているのでしょう。

大企業の欺瞞

 企業(株式会社)の所有者は株主であることは、制度上事実ですが、実際上は企業官僚体制における「企業経営者」の手に委ねられているとの指摘です。

(p59より引用) 企業経営に関する幻想は、最も手の込んだ、そして近年では最も際立った欺瞞である。「資本主義」という悪名を追放しようとするのなら、それに代わる適切な名称は「企業官僚主義」のはずである。・・・オーナー経営者や株主という言葉は日常的に、また好意的な意味合いを込めて使われるけれども、実際問題として、株主が企業経営において何の役割も果たしていないことは、火を見るよりも明らかである。

 この点は、日本はもとより、株主が強い力を持っているといわれている米国ですらそうだということです。
 この状況の証左が、ここ数年の間に顕在化した大企業の「粉飾決算」です。

(p106より引用) もっとも重要なのは次の点である。実効性のある規制のおかげで企業の行動が改善されれば、国民全体に大いなる利益がもたらされる。経営者による横領は国民全体に不利益をもたらす。このことは誇張でも脅しでもなく、正真正銘の事実なのである。取締役や株主による監視機能が十分だと思ってはならない。不正を防止する力を持つのは、司法当局だけなのである。

 最近はコンプライアンス重視の傾向が強まり、企業における監査機能の強化(社内/社外監査役・会計監査人等)が図られていますが、それも含めて最終的には「司法」に頼らざるを得ないというのが現実だとすると情けない状況ではありますね。

 さて、ガルブレイス氏は、その他大企業をとりまく欺瞞として「エコノミストによる経済予測」も取り上げています。
 まずは、そもそもの経済予測の確度についての疑問です。

(p82より引用) 未知なるものの寄せ集めを知ることはできない。このことは、経済全体について真であるばかりか、特定の産業や企業についても、同じく真である。経済の将来予測は、これまで当たったためしがないし、今後とも経済予測が当たることはあり得ない。
 にもかかわらず、経済、とりわけ金融の世界では、未知なるもの、そして知り得ないはずのことを予測する営みが、必要不可欠であり、高収入にありつきやすい職業のひとつとされている。

 にもかかわらず、エコノミストはしたり顔で予測を開陳します。政策の転換期・企業の決算期等々、折々に百花繚乱という感じで経済予測や企業の業績予測が登場します。

(p88より引用) ウォール街でコンサルタント役を引き受けるエコノミストは、・・・研究委託先の儲けが最も大きくなるような予測をする。また彼らは、自分の予測が周知されることを望む。なぜなら彼らは、自分の保有している株式の株価を押し上げる効果のある予測をしているのだから。
 要するに、自らの利益に供し、みずからの損失を防ぐことが、ウォール街を闊歩するエコノミストたちの予測の目的なのである。

 穿った見方ではありますが、首肯できる指摘です。

景気調整の欺瞞

 ガルブレイズ氏は、極め付きの欺瞞の主として「連邦準備制度(中央銀行)」を挙げています。
 長年にわたり、米国では、失業と景気後退、インフレリスクの歯止め対策として、連邦準備制度による強権的措置すなわち公定歩合の調整が最善の経済政策であるとされていました。

(p93より引用) 景気が過熱気味となり、インフレの脅威が顕在化すれば、今度は、連邦準備制度理事会が貸し出し金利引き上げの先鞭をつける。・・・その結果、企業の設備投資と消費者の借財は抑制され、過度の楽観主義は戒められ、物価上昇は抑え込まれ、インフレ懸念は払拭される-。・・・

 この考え方は、まさに教科書的であり、ある種の経済合理的?前提にたつと成り立ちうる考えではあります。
 しかしながら、ガルブレイス氏は以下のように喝破します。

(p94より引用) このシナリオは、うわべでは説得力のある理論に基づいているのだが、現実や実務経験を通じて編み出されたものではない。民間企業は、儲けが生み出される可能性を見込めるときに銀行から融資を受けるのであって、金利が安いからというだけの理由で借財するわけではないのだ。

 もちろん金利の下落は設備投資の誘因にはなります。
 しかしながら、投資が企業経営上必要だと判断されると、そのための資金調達は、借入金や国内外の市場での社債等の発行といった種々の手段のうち、そのときのまた将来の金融市場の動向を勘案して最も有利な方法を選んで行われます。金利が高いからといって必要な設備投資を行わないというのは現実的にはありえません。企業経営の立場からみると至極当然のことです。

(p101より引用) 民間企業の行動は、売上高の増減に反応して決まる。要するに、連邦準備制度理事会の役割はなきに等しいのである。消費者や企業の支出を理事会がコントロールできるというのは、単なる幻想でしかない。

悪意の欺瞞

 本書でガルブレイス氏が「欺瞞」だと指摘している真の対象は、新古典(保守派)経済学の「強者の倫理と論理」であると思います。
 ガルブレイズ氏は、「強者の倫理と論理」に基づいた経済政策の欺瞞の例として「減税による景気回復策」を挙げています。

(p122より引用) 近時、景気回復のために必要だからとして実施される減税が、景気回復の特効薬だというのは寓話以外の何ものでもない。・・・減税による所得の増分は必ずしも消費に回されないから、減税の景気浮揚効果は総じて乏しいのである。
 それだけではない。景気後退の確実な治療法の一つは、個人消費支出の堅実な伸びを誘うことである。言い換えれば、個人消費支出の低迷こそが、景気後退の元凶なのである。

 減税は、強者(富裕層)の可処分所得を増やす効果に止まるとの主張です。

(p123より引用) 使い道のない富裕層にお金を与えて、貧困層に生活苦を押しつける。その結果、景気は後退するけれども、政府は何ら有効な対策を講じない。・・・
 何か積極的な提言をしたいものである。しかし、経済学の世界には、確固たる信念のようなものがあって、それが、ときには逆効果を生む経済政策を支持し、ときには効果的な経済政策を支持する。
 景気が後退しているときには、購買力の確実な増加がなくてはならない。そのためには、所得の増加を確実に消費に回す貧者の可処分所得の増加こそが求められるのである。こうした対策が有効なことは否定すべくもないのに、無益な弱者救済策だとして一蹴されてしまう。

 米国における最大の強者は、大企業でありペンタゴン(軍)です。ここでいう大企業は何らかの形で軍需に関わる産業です。
 この図式で以下のガルブレイス氏の指摘を解すると、公的セクターはペンタゴン、私的セクターは軍需産業と当てはめられます。

(p72より引用) 他の諸国でも程度の差こそあれそうなのだが、とくに米国では、公と私の二セクターの役割分担をめぐって、侃々諤々の論争が繰り広げられてきた。・・・
 よく考えてみれば、公的セクターと私的セクターを区別すること自体が、無意味なことのように思えてくる。なぜなら、いわゆる公的セクターの仕事の大部分、その根幹となる部分、そして拡張しつつある部分は、私的セクターを潤すことのみを、そのねらいとしているからである。

 ガルブレイス氏は、本書の最後に、現在の最大の問題について付言します。

(p126より引用) 文明は、数世紀間にわたる科学、医療、あえて付け加えれば、経済的繁栄の賜物である。その反面、文明は、兵器の増強と周辺諸国への軍事的脅威、そして戦争をも是認してきた。文明を普遍化させるためには、大量殺戮さえもが避けて通れぬ道だとして正当化されるようになった。・・・
 戦争にまつわる経済社会的諸問題は、飢えや貧困と同じく、人類の英知と行動によって解決するしか他に手立てはない。解決へ向けての動きはすでに始まっていると見てよい。いまもって戦争は人類の犯す失敗の最たるものなのである。

 軍産複合体の問題については、米国でも古くから指摘され警鐘が鳴らされていますが、まさに今、再び三度、顕在化しているのです。

 この問題が解決されることなく、先年ガルブレイス氏は亡くなりました。残念です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?