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イソップ寓話集

時空の隔て

 イソップ(英語名)は、前6世紀のギリシャの寓話作家でギリシャ語名はアイソポスと言います。幼いころ誰でも耳にした寓話のいくつかはイソップにより語られたものでしょう。

 日本へは16世紀末にキリシタン宣教師によってイソップ寓話集のラテン語版がもたらされ、1593年(文禄2)、「イソポのハブラス」(天草本伊曽保物語)として出版されたものが翻訳物としては最初とのことです。その後、江戸初期以来、各種の「伊曾保物語」の出版により広く日本中に普及しました。

 日本に伝わる民話・昔話・逸話等の中には、イソップ寓話と殆ど同じ内容のものがいくつもあります。それらは、実際イソップ寓話が原型のものもあれば、別の伝承が偶然類話となったものもあるようです。
 その中で有名なものは、毛利元就の「三本の矢」の逸話です。

 あるとき元就は、長男隆元・次男吉川元春・三男小早川隆景を呼び、矢を手に持ちながら「この矢は、1本だとすぐ折れてしまう」と言ってぼきっと折った。次に、3本の矢を束ねて持ち、「これだと、なかなか容易には折れぬ。兄弟もこれと同じじゃ。仲良くせいよ」と言った

 この逸話は、イソップ寓話の中の「兄弟喧嘩する農夫の息子」(イソップ寓話集(岩波文庫53))の内容と「矢」が「棒」になっているぐらいで殆ど同じです。
 ただ、日本での最初の翻訳物は前述したように1593年、他方、毛利元就は1571年に死去しています。
 時間と空間を大きく隔てて、普遍的な精神が流れているのかもしれません。

ちょっと気になった話

 イソップ寓話のストーリの癖として、素直に善行(たとえば正直であることとか)を勧めているものは多くないようです。むしろ、正直過ぎることで騙されたり、思慮の浅さによって不幸な目に会ったり、という形で忠告してくれています。

 そういったものが多い中、何となくタイプが違う話として印象に残ったものを2つ。

85 子豚と羊
 仔豚が羊の群にまぎれこんで草を食んでいた。ある時、羊飼に捕まったので、泣き叫び逆らっていると、羊たちは仔豚が泣くのを咎めて、
「わたしたちもいつも捕まっているのに、泣きわめいたりしないでしょう」と言った。
それに対して仔豚の言うには、
「僕と君たちとでは、捕まる意味が違う。君たちが引ったてられるのは羊毛か乳のためだが、僕の場合は肉のためだ」

 身に迫る大変さの程度が全然違うのですが、そういう相手の気持ちは結構気づかないものです。

322 蟹と母親
 「斜に歩いちゃだめよ。濡れた岩場で横さらいはいけません」と母親が注意すれば、子蟹の言うには、
「お母さん、まず先生が真っすぐ歩いてよ。それを見てするから」

 こちらは、いつの時代でもいずこも同じという感じです。

これもイソップ?

 イソップ寓話の中でもとりわけ有名なもののひとつが「アリとキリギリス」でしょう。
 この話の原型はイソップ寓話には2話あります。
 岩波文庫の「イソップ寓話集(中務哲郎訳)」では、「112 蟻とセンチコガネ」と「373 蟻と蝉」です。
 このためでしょうか、世界には、この話の変化形として「アリ」のペアにいろいろなムシが登場します。「キリギリス」のほかに「甲虫」「トンボ」・・・ただ、いずこも働き者はやはり「アリ」です。

 そのほか、イソップが起源かどうかは定かでありませんが、「イソップそっくりさん」です。
 先に「毛利元就の三本の矢」のそっくりさんは紹介しましたが、「173 樵とヘルメス」は、日本各地に伝わる昔話の「金の斧銀の斧」と驚くほど同じです。

 諺の類では、「人事を尽くして天命を待つ」≒「291 牛追とヘラクレス」ですし、「147 ライオンと熊」は、ライオンと熊が仔鹿をめぐって争ったあげくその仔鹿を狐に持っていかれる話で、まさに「漁夫の利」と同じです。
 ちなみに、漁夫の利となる一歩手前で2頭が踏み止まる「338 ライオンと猪」という話もあります。



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