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寺田寅彦随筆集(第1巻)(寺田 寅彦)

科学者と芸術家

 先に読んだ「〈数学〉を読む」という本の中で若手の数学者の方が推薦していたので、遅ればせながら寺田寅彦氏の随筆集を読んで見ました。

 科学者としての目と随筆家としての目という「複眼思考の実践」のようにも思えますし、科学者の目を入力とし随筆家の筆を出力とした「科学と文学のコラボレーション」とも言えます。

 そういった意味では確かに一風変わった感触の著作だと思います。
 特に「芝刈り」という作品などは、どこまで意図的なのか勘ぐりたくなるぐらいある種理屈っぽく表現されています。科学者の筆による緻密で論理的な表現と感じる人もいれば、著者一流のユーモアやエスプリの効いた表現と捕らえる人もいるでしょう。

 ただ、他の作品を読んでみて思うのは、寺田氏は心底科学者としての分析的・実証的な視点から、身の回りの事象・現象を真正面から捉え続けていたのだということです。

 数ある作品の中で、タイトルからしてストレートに上記の内容に関わるものに「科学者と芸術家」という一編があります。
 その中の一節です。

(p92より引用) 純粋に解析的と考えられる数学の分野においてすら、実際の発展は偉大な数学者の直感に基づく事が多いと言われている。この直感は芸術家のいわゆるインスピレーションと類似のものであって、これに関する科学者の逸話なども少なくない。長い間考えていてどうしても解釈のつかなかった問題が、偶然の機会にほとんど電光のように一時にくまなくその究極を示顕する。・・・もっともこのような直感的の傑作は科学者にとっては容易に期してできるものではない。それを得るまでは不断の忠実な努力が必要である。・・・一見はなはだつまらぬような事象に没頭している間に突然大きな考えがひらめいて来る事もあるであろう。

 不断の努力の大切さを語っています。
 以前読んだ「数学的思考法」という本にて数学者の芳沢光雄氏も同じような趣旨のことを記しています。

いつかどこかで聞いたような

 「寺田寅彦随筆集」の中で、私の気にとまった一節です。

(p271より引用「笑い」) (笑いの原因について)ともかくも精神ならびに肉体の一時的あるいは持続的の緊張が急に弛緩する際に起こるものと言っていい。

 私の好きな噺家の桂枝雀(故人)さん(故人)が、「笑いは緊張と緩和」ということをよく話の枕で語ってられていました。同じ趣旨かもしれません。
 以前、といってもはるか昔の中高校生のころですが、寝る前布団の中でよくラジオの寄席を聞いていました。それから少し年を経たぐらいが、枝雀師匠の世の中的な人気の絶頂期だったと思います。
 「爆笑王」と言われましたがた「異才・天才かつ真面目な努力家の人」の方でした。

(p279より引用「案内者」) いくら完全でも結局案内記である。いくら読んでも暗唱しても、それだけでは旅行した代わりにならない事はもちろんである。

 これと似たようなことは、「先入観を持つな」「自分の頭で考えろ」といった文脈で多くの人が語っています。
 このBlogでも勝海舟の「氷川清話」ショウペンハウエルの「読書について」等でご紹介しました。

(p295より引用「断水の日」) 構造物の材料や構造物に対する検査の方法が完成していれば、たちの悪い請負師でも手を抜くすきがありそうもない。そういう検定方法は切実な要求さえあらばいくらでもできるはずであるのにそれが実際にはできていないとすれば、その責任の半分は無検定のものに信頼する世間にもないとは言われないような気がする。

 ちょっとスキームは違いますが、最近社会的に大きな問題になっている事柄を思い浮かべてしまいます。


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