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国家の品格 (藤原 正彦)

論理の出発点

 言わずもがなの大ベストセラーです。
 著者の主張は明確で、立論の構成もシンプルなので、際立って読みやすい本でした。(立論の根拠やロジックが十分に首肯できるか否かは別としてですが)
 「品格」云々の主張はともかく、私がなるほどと感じた部分をいくつかご紹介します。

 まずは、「論理の出発点」についてです。
 著者は、本書で幾つかの点で欧米批判を展開していますが、かといって、それらの国の主義主張における「論理性・合理性」を否定しているわけではありません。

(p95より引用) 論理とか合理を否定してはなりません。これはもちろん重要です。これまで申しましたのは、「それだけでは人間はやっていけない」ということです。何かを付加しなければならない。その付加すべきもの、論理の出発点を正しく選ぶために必要なもの、それが日本人の持つ美しい情緒や形である。それが私の意見です。
 論理とか合理を「剛」とするならば、情緒とか形は「柔」です。硬い構造と柔らかい構造を相携えて、はじめて人間の総合判断力は十全のものとなる、と思うのです。

 「論理的に正しい」ということと、その「結論が正しい」ということは、全く別のものです。(これは言われてみれば至極当たり前のことですが、しばしば短絡的な誤解や混乱を生み出します。)
 「論理は、出発点が異なると結論も異なる」、「出発点が間違っていると、論理が正しくても導かれる結論は誤ったものになる」、したがって、「出発点」の規定が最も大事だと主張しているのです。

(p149より引用) 欧米人のように「論理的にきちんとしていればよい」「筋道が立っていればよい」という考えは、今まで述べてきた通り、誤りです。万人の認める公理から出発する数学とは違い、俗世に万人の認める公理はありませんから、論理を展開するためには自ら出発点を定めることが必要で、これを選ぶ能力はその人の情緒や形にかかっています。・・・実社会では普通、誰の言うことも一応、論理的には筋が通っているものです。メチャクチャなことを言うのはよほどオカシイ人だけ。まあ、そういう人もけっこういますが、普通の人の言うことなら一応、論理的な筋だけは通っている。
 そうした「論理的に正しい」ものがゴロゴロある中から、どれを選ぶか。その能力がその人の総合判断力です。それにはいかに適切に出発点を選択できるか、が勝負です。別の言い方をすれば「情緒力」なのです。

 この「出発点」は「世界観/価値観」です。著者は、自己の世界観/価値観の根本に「情緒」や「惻隠」を置いています。これも一つの考えではあります。

長い論理

 先のコメントに続いて、次のなるほどは、「長い論理の危険性」についてのくだりです。

(P58より引用) 一般の世の中では、長い論理というのは非常に危険なのです。すべてのステップは灰色だから、小数のかけ算を何度もすることとなり、信憑性はどんどん下がっていきます。

 例として「風が吹けば桶屋が儲かる」話が示されていましたが、そのとおりです。
 ロジックとしては、それなりに因果関係が認められるものの、原因と結果が成立する「確率」を考慮すると、結果として「到達した最終結論との因果関係が成立する確率(桶屋が儲かる確率)」は、極めて小さくなるというわけです。

 このように、数学者でもある著者一流の説明は、とても分かりやすく、的を得たものも多く見られます。
 もちろん、非常にハッキリした主張内容なので、私にとっては、その内容自体、100%首肯できるものではありませんでした。(この本が、今でもなおベストセラーで残っているという現象の方により興味を惹かれます)
 本書の成り立ちからいっても、著者の講演記録に筆を加えたものとのことですから、十分な根拠データや反論を想定した重厚な理論武装を求めるのは無理だと思いますし・・・。

 ただ、1点、気になるところがありました。

(p13より引用) 産業革命の家元イギリスが七つの海を武力によって支配し、その後をアメリカが受け継いだ結果、いま世界中の子供たちが泣きながら英語を勉強している。侵略者の言葉を学ばなければ生きていけないのですから。
 もしも私の愛する日本が世界を征服していたら、今ごろ世界中の子供たちが泣きながら日本語を勉強していたはずです。まことに残念です。

 藤原氏は、この文で何を伝えたかったのでしょう。
 局所的にこの部分だけ採り上げるのはフェアでないかもしれません。ただ、私は、(申し訳ないのですが、)この一文で、藤原氏の立論に“偏見”を抱いてしまいました。残念です。


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