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読書について 他二編 (ショウペンハウエル)

思索

 ショウペンハウエルは、ペシミズムの哲学で有名な19世紀ドイツの哲学者です。
 エンカルタ百科事典によると、彼の主張はヘーゲルの観念論的哲学に強く反対したもので、

「物自体とは実は意志であり、表象としての世界の根底には、意志としての世界が横たわっている。ここでいう意志は、ある展望をもった自発的行為だけをいうのではない。人間のあらゆる精神的活動も、無意識の生理的機能もその本質は意志であり、それどころか意志は、非有機的な自然をうごかしている内的な力でさえある。ひとつの普遍的な意志が宇宙の究極的な実在なのである。」

とかということらしいのですが・・・(何のことやらよく分かりません)

 岩波文庫に「読書について他二編」として収められている彼の著作は、(上記の解説に比べ、)はるかに読みやすく分かりやすいものです。(親切な訳のおかげかもしれません)
 下手なコメントを加えるより、何節か以下にご紹介します。

(p6より引用) 自ら思索することと読書とでは精神に及ぼす影響において信じがたいほど大きなひらきがある。・・・すなわち読書は精神に思想をおしつけるが、この思想はその瞬間における精神の方向や気分とは無縁、異質であり、読書と精神のこの関係は印形と印をおされる蝋のそれに似ているのである。・・・このようなわけで多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る。
(p8より引用) 読書は思索の代用品にすぎない。読書は他人に思索誘導の務めをゆだねる。
(p11より引用) 読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けて行けば、仮借することなく他人の思想が我々の頭脳に流れこんでくる。ところが少しの隙もないほど完結した体系とはいかなくても、常にまとまった思想を自分で生み出そうとする思索にとって、これほど有害なものはない。
(p16より引用) 精神が代用品になれて事柄そのものの忘却に陥るのを防ぎ、すでに他人の踏み固めた道になれきって、その思索のあとを追うあまり、自らの思索の道から遠ざかるのを防ぐためには、多読を慎むべきである。

 書物は、他人の思索のプロセスや結果を記したものです。したがって、それにどっぷりと浸かってしまうと、無意識のうちに他人の思索プロセスを援用したり結論の影響を受けたりしてしまうのです。

 ショウペンハウエルは、自らの頭で考えることの大事さを訴えています。
 自らの頭で考えた独創的な思索のみに価値を認めているのです。模倣や借用はだめ、本質の乏しいことを覆い隠す不必要な修飾や曖昧な言葉を操ってのまやかしもだめということです。
 なお、表題の「思索」の原題は「Selbstdenken」で、文字通り「自ら考えること」だそうです。(本田宗一郎さんの考え方もこれと同根ですね)

著作と文体

(p30より引用) 最近の発言でありさえすれば、常により正しく、後から書かれたものならば、いかなるものでも前に書かれたものを改善しており、いかなる変更も必ず進歩であると信ずることほど大きな誤りはない。

 先人を否定をすることはたやすいことです。特に過去の権威ある著作に対して異を唱えることは、容易に脚光を浴びる近道でもあります。しかしながら、ポイントは、その思索が真に対象(古典)を凌駕しているかです。

 これは別に古典に限らずすべての著作に対して言えることですが、その著作が伝えようとしている趣旨やそこに至る思索の営みをどれだけ真摯な姿勢で理解しようとしているか、批判者には、その受容のための努力が必須です。
 対象の真意を掴み切らない以上は、それと対等な的確な同意・反論はできませんし、批判する資格も生まれないのだと思います。

 古典は、長きにわたる年月を経て多くの人の耳目をくぐって今に至っているのですから、まずは教授を受けるべく謙虚に相対するべきでしょう。



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