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葉隠入門(三島 由紀夫)

「葉隠」と三島由紀夫

 「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」であまりに有名な「葉隠」です。
 その「葉隠」の三島由紀夫による入門書ということで興味を抱きました。

 本書のプロローグの中で三島は以下のように、自分にとっての「葉隠」を紹介しています。

(p8より引用) ここにただ一つ残る本がある。これこそ山本常朝の「葉隠」である。戦争中から読みだして、いつも自分の机の周辺に置き、以後二十数年間、折にふれて、あるページを読んで感銘を新たにした本といえば、おそらく「葉隠」一冊であろう。わけても「葉隠」は、それが非常に流行し、かつ世間から必読の書のように強制されていた戦争時代が終わったあとで、かえってわたしの中で光を放ちだした。「葉隠」は本来そのような逆説的な本であるかもしれない。

 そして巻末の「『葉隠』の読み方」の章において、このように結んでいます。

(p90より引用) われわれは、ひとつの思想や理論のために死ねるという錯覚に、いつも陥りたがる。しかし「葉隠」が示しているのは、もっと容赦のない死であり、花も実もないむだな犬死にさえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しているのである。もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳を重んじないわけにいくであろうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。

 この本を書いた3年後に三島は市ヶ谷駐屯地に赴いたのです。

「葉隠」の気遣い

 「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」ということばかりが有名な「葉隠」ですが、そのコンテンツには、実務的な箴言・教訓が数多く含まれています。

(p68より引用) 世に教訓をする人は多し。教訓を悦ぶ人はすくなし。まして教訓に従ふ人は稀なり。年三十も越したる者は、教訓する人もなし。されば教訓の道ふさがりて、我儘なる故、一生非を重ね、愚を増して、すたるなり。故に道を知れる人には、何とぞ馴れ近づきて教訓を受くべき事なり。

 「傍目八目の効用」「翌日の予定の立て方」「酒の席の作法」「奉公人の心構え」・・・、果ては「欠伸の止め方」まであります。
 山本常朝が「葉隠」で伝えようとしたものは、(決して後ろ向きの死生観を語るものではなく、)現実世界での前向きな姿勢を勧める至極真っ当な気構えです。

(p141より引用) 大難大変に逢うても動転せぬといふは、まだしきなり。大変に逢うては歓喜踊躍して勇み進むべきなり。一関越えたるところなり。「水増されば船高し。」といふが如し。

 また、その言い振りは決して高みに立った物言いではありません。
 たとえば「人への忠告の仕方」はこんな感じです。

(p41より引用) 意見の仕様、大いに骨を折ることなり。・・・そもそも意見と云ふは、先づその人の請け容るるか、請け容れぬかの気をよく見分け、入魂になり、此方の言葉を平素信用せらるる様に仕なし候てより、さて次第に好きの道などより引き入れ、云ひ様種々に工夫し、時節を考へ、或は文通、或は雑談の末などの折に我が身の上の悪事を申出し、云はずして思ひ当る様にか、又は、先づよき処を褒め立て、気を引き立つ工夫を砕き、渇く時水を飲む様に請合せて、疵を直すが意見なり。されば、殊の外仕にくきものなり。・・・諸朋輩兼々入魂をし、曲を直し、一味同心に主君の御用に立つ所なれば御奉公大慈悲なり。然るに、恥をあたへては何しに直り申すべきや。

 相手の立場を慮った思いやり溢れる対応です。

武士のたしなみ(三島流美学?)

 三島が心酔したという「葉隠」にあるフレーズです。

(p58より引用) 風体の修業は、不断鏡を見て直したるがよし。・・・うやうやしく、にがみありて、調子静かなるがよし。
(p76より引用) 写し紅粉を懐中したるがよし。自然の時に、酔覚か寝起などの顔の色悪しき事なり。斯様の時、紅粉を出し、引きたるがよきなりと。

 「葉隠」は、極めて実際的な教訓を語っていますが、これらもそのひとつです。

 当時の武士道は、武士としての体裁・外聞・面目を重んじるものでした。内面もそうですが、「外見」にも相当きめ細かな気遣いをが求められていたようです。
 ひとかどの侍が、日々鏡とにらめっこしたり、今で言えばファンデーションを持ち歩いたりしている姿は想像し難いのですが、真面目にここまでの緊張感が必要だったということかもしれません。
 三島由紀夫のある断面のイメージに重なるような気がします。


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