TheBazaarExpress73、伝統と継承・職人の世界、その1~小樽ガラス、樺細工(秋田)、南部鉄器(盛岡)、ビスポーク靴(宮城県加美町)、桐箪笥(新潟県加茂市)

『小樽ガラス』

そのガラスのコップには、大小様々な空気の粒が泡状にまぶされている。長い鉄パイプの先に溶けたガラス玉を巻き付け、息を吹き込む宙吹き工法。その工程でガラス生地にわざと空気を入れ独特の風合いを醸し出す。本来嫌われる泡を風味としてデザイン化したところに、ガラス工芸作家・浅原千代治のセンスが香る。

「でも他の人の泡と僕のは違うんですよ。できあがりを計算してるし、泡が何重にもなっているでしょ」

浅原が胸をはる。

 北の港町・小樽を見下ろす天狗山の中腹にあるグラス・スタジオ。室温43℃の工房内を、5人のスタッフが汗だくになりながら小走りに動き回っている。若いスタッフが、バッチと呼ばれるガラスの素材が約1400℃の熱で溶けた坩堝からパイプの先に下玉を取る。ベテランが吹いて表面を整えながらガラス生地を巻き付ける。浅原は、工房の中央で時に孫悟空の如意棒のようにパイプをクルリと回転させる。遠心力を使ってガラス生地を延ばすのだ。

続いて縁台に腰掛けてパイプを廻しながらの成形作業。右手の西洋箸でガラスの口を広げ、足を伸ばし、胴を縮めながら形を整える。水飴のように溶けたオレンジ色のガラスは、温度が下がるに従って変色しながら固まっていく。狙った形が出来るまで成形炉で溶かし戻しをしながらの作業が続く。

 そもそもガラスは「一瞬の芸術」と呼ばれる。工程のタイミングが少しでもずれたら思うような形を成さない。若手とベテランが早過ぎず遅過ぎず、次の工程を準備してガラス玉を手渡していくチームワークが大切だ。浅原が言う。

「ガラスはオモロイですよ。土や石とは全然ちゃいますやん。液体から固体に変わっていく性質なんて、他の素材には絶対にないですやろ」

 小樽で聞く大阪弁が耳に優しく響く。

もともと浅原は大阪の出身だ。70年代末期にガラス職人のユートピア創りを夢見て仲間とこの街にやってきた。

 実は大阪は、隠れたガラスの発祥地でもある。通常日本のガラス史は1876年(明治9年)に設立された品川の工部省硝子製造所が始点とされる。それ以前は正倉院に伝わる琉璃玉や1543年に種子島に漂着したポルトガル船が持ち込んだベネチア・ガラス、あるいは中国からイヌイット族に伝わった首飾りなどがあった。江戸時代のギヤマンやビードロ等は大名や豪商たちが珍重したものだ。

 その歴史からスッポリ抜け落ちたのが「大坂」ガラスだった。江戸末期から、現在の天満あたりの運河沿いにはたくさんのガラス工場があった。参勤交代で大坂を通った長崎や薩摩の侍たちにガラスを見せびらかされた大坂商人が、ならば自分たちで、と工房を作ったのだ。

 浅原は、最盛期には150人もの職人が働いたガラス工場の4代目。生家は、西洋箸を扱い高度な技術から様々な製品を創り出す「舶来屋」と呼ばれていた。門前の小僧だった浅原は、少年時代から職人たちの手ほどきを受け、大学でインテリア・デザインを学んだ後工場に入った。

「大学卒業後は窯の前で生活してたようなもんです。朝6時には道具の準備をしてました。ぼん(息子)というても他の小僧さんと同じ。習うより慣れろいうことだったですわ」

 やがて30代半ば、浅原は工場内の若手職人数人を引き連れて小樽への移住を試みる。商品を企画するだけのデザイナー作家やなしに、自ら宙吹きをする作家の工房を創りたい。全国にガラスの価値とよさを愛してくれるファンを広めたい。そんな思いが嵩じた結果だった。

 一方小樽には、浅原たちの気持ちを受け止めるガラスの歴史と環境があった。

 明治末期から大正期にかけて盛んだった北洋漁業の網に括られた浮きガラス生産は、この地の主要な産業の一つだった。長崎、横浜、門司等にも共通するレトロで洋風な港町にはガラスがよく似合う。消費地である大都市札幌にも近い。移住当初、浅原たちは浮き玉工場の跡地を借りて窯を開き作品作りを開始した。

「週に3日職人仕事をして残りの3日で創作する。僕ら、会社をパトロンとしてガラスを創り続けていきたいんです」

 商品を大量に他に負けないスピードでつくる職人仕事と、ガラス作家としての創作活動。その両立こそ、浅原たちが目指したものだった。

同時に小樽との出会ったことで、作家・浅原にも変化があった。「風」をモチーフにした作品が増えたのだ。

「北海道の立待岬で風を受けたときに、あぁ生きてるなぁと感じたんです。大阪ではそんなこと感じなかった。その時僕は大阪から吹いてきた風やと思いました。そこから作風が変わったんです」

 今日も工房には、日本海からの風が吹く。北の大地の豊かな自然に包まれて、浅原とその仲間たちの創作活動が続いている。(敬称略)


『樺工芸(秋田・角館)』

60年前のたった二週間強の体験が、一人の職人の歩む道を決めた。1942年(昭和17年)大陸では軍靴の響きかしましかった頃、当時22歳だった樺細工職人・小柳金太郎は、師匠の佐藤省一郎に連れられて夜汽車で東京駒場の日本民芸館を訪ねた。言うまでもなく柳宗悦、浜田庄司、河井寛次郎らが集まる「民芸運動」の総本山だ。小柳は言う。

「私たちが民芸館に呼ばれたのにはびっくりしました。柳先生は、樺細工には力がある。いたずらに華美に走らず桜の自然のままの模様がいい。これは世界に誇れる仕事だよと仰った。その言葉は魔法のように私に響いたのです」

 この頃柳たちは全国を隈なく歩き、維新後欧化思想の中で亡びつつあった民衆の生活に根付いた工芸品を採集していた。

──樺細工は日本独自のもの。日本の花桜の皮を使い寿命が長いところがいい。

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