TheBazaarExpress80、美食を真の文化に、二代目の葛藤~辻芳樹編

 大阪城公園の蕾が膨らみ、ホールのアリーナに辻調理師専門学校のグループ4校総計約2000人の卒業生が集まる季節になると、同校校長、辻芳樹(49歳)の胸にはあるシーンが去来する。20年前、先代校長の父・静雄が急逝し(享年60歳)、約2週間後に初めて校長として卒業式の演壇に立った時のことだ。

「校長挨拶で父が用意していたものをメモを見ながら読み上げたら、後に義父に叱責された。なぜメッセージを暗記しないのかと。あの頃の私にはそれが精一杯のことだったのですが」

 実はその頃、辻は英語は自在だったが日本語が苦手だった。周囲のスタッフには、「これ日本語でどう言うんだっけ?」と質問を繰り返す日々。

幼少期から、辻は異文化と孤独の中で生きてきた。「大阪にいたら周囲にちやほやされてぼんぼんになる」という父の方針で、小学校4年のときに一人大阪を出されお手伝いさんと共に東京へ。暁星小学校に転校した。

中学入学と共に今度は独りぼっちでロンドンへ。まずはイギリス西部にある語学学校へ半年間進み、その後ガーディアンと呼ばれる身元引受人の庇護の元、スコットランド・エジンバラにある「フェティス・カレッジ」で寮生活を続けながら中学高校時代を過ごした。

その後ニューヨークの大学とエジンバラ大学院に進み27歳まで異文化で暮らし、日本に戻ったのは父の急逝の約2年前のこと。帰国後も銀行系の経済研究所に籍を置き、学校とは一定の距離をおいていた。

 静雄の跡を継いで2代目の校長就任は、先代も本人も周囲も誰も疑っていなかった。けれど稀代のスタイリストの静雄は、自分ができなかった夢を辻に託した節がある。

 静雄が胸襟を開いて交わった友、小谷年司(栄光時計株式会社会長、76歳)は言う。

「静雄さんはフランス料理の専門家ですが実はイギリス好きでした。少年時代に進駐軍から英語を学んで育ったので、息子には本物のジェントルマンシップとクイーンズイングリッシュを身につけてほしかったのでしょう」

 もちろん幼少期から、料理学校の後継者として本物の味覚を知る教育は様々に施されていた。8歳の誕生日からは、大阪市内の『高麗橋吉兆』で食事をするのが習わしで、名人(故)湯木貞一がつくる料理が辻の和食の原点だ。国内の旅先で家族で食事をするときは、静雄は「ここの料理長の年齢や出身地を当ててみよう」とクイズを出した。お椀の出汁の味や煮物等の食材の使い方、味付け、盛り方、皿のデザイン等を吟味しながら、胃袋だけでなく頭脳でも食べる。それが辻の習慣となった。

留学時には、長期休暇のシーズンになると静雄は仕事をつくってヨーロッパにやってきて、辻と美食の旅を続けた。10歳で代の頃には当時世界最高のレストラン、フランス・ヴィエンヌにあった『ピラミッド』で10日間の調理研修をし、24歳の時には、親子三代にわたってミシュランの3つ星を獲得した『ピック』で研修したこともある。それでも静雄はこう言い続けた。

「お前は料理人にはなるな。学校には素晴らしい教授陣が大勢いる。競争しても無駄だ」「間違っても自惚れたり勘違いしたりするな。世界には上には上がいる。料理でも他でも知ったかぶりをするな」「我が家は美食と贅沢を売る商売だ。この仕事をしていると、世界の超一流の人間と出会える。それを大切にしろ」

 つまり経営者、教育者であるとともに、食べ手のプロになれという教えだった。

 辻と一緒に食事をすると、その速度に驚く。どんなに会話が弾んでいても、辻は料理が運ばれてきた瞬間に全神経を皿に向け、一心不乱に食べ始めあっと言う間に食べ終える。料理は客の前に出された瞬間が最高の状態なのだから、当然だと言いたげに。旬の食材の使い方と調理法から料理人の意志をくみ取り、コースの中でどの皿にその日のピークをもって来ようとしているか、精一杯の感覚でその意図を味わおうとする。それが職人への礼儀だと言わんばかりに。

 辻調の技術顧問、九州沖縄サミットの首脳社交晩餐会の(副)料理長を努めた西川清博が言う。

「辻家のみなさんは、食べているときも夢中なら食べ終わった後でもいつまでもいつまでも料理の話をされています。そこまで真剣に味わってくれるのかと、料理人としても冥利に尽きます」

 端正な容姿、サラブレッドの血統、料理に向かう情熱とその姿勢。文句の付けようのない存在だが、辻の人となりを知る友人知人たちは、意外にも「彼はコンプレックスの塊」と感じている。

 30代の半ばから親交の深い、元ラグビー日本代表監督、同世代の平尾誠二(現・神戸製鋼ゼネラルマネージャー)は言う。

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