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武蔵野線開業と廃止となった下河原線の末期

山手線の外側を走る武蔵野線。今でこそ日中時間帯は10分に1本の旅客列車が運転されていますが、開業当時は40分に1本という閑散路線でした。開業当日の様子と武蔵野線開業により廃止となった下河原線の末期の姿を写真で振り返ります。

(この記事は2019年6月に会員限定記事として配信したものです。)

西国分寺南側~北府中間は下河原線の用地を転用

 東京の外環状線となっている武蔵野線は山手貨物線の迂回路線として計画され、1965(昭和40)年に着工、1973(昭和48)年4月1日に第1期分の新松戸~府中本町間が開業しました。

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▲開業当日の新松戸駅。武蔵野線ホームは府中本町方面が3番線、将来の西船橋方面が4番線となっていて、当面は3番線のみを使用していた。写真は到着する列車で、4番線側は架線も張られていない。カーブしている線路は南流山駅と常磐線馬橋駅を結ぶ貨物線(1973年4月1日、楠居利彦撮影)。

 路線の大部分は高架。住宅密集地は長大トンネルで抜け、踏切はありません。常磐線、東北本線、中央本線とは立体交差の連絡線が設けられ、中間駅にも有効長の長い中線を備えています。

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▲常磐線の新松戸駅は緩行線にホームが設けられた。その上に直交して武蔵野線のホームがある(1973年4月1日、楠居利彦撮影)。

 建設にあたっては西国分寺南側~北府中間で下河原線の用地を転用したため、国分寺~東京競馬場前間の同線は武蔵野線の開業と同時に廃止されています。当時、趣味的にはクモハ40が単行運転している下河原線がなくなることの方が関心事で、私も3月中に何度か下河原線に足を運んでいます。

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