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Sabbath

 知っているのはこの空だけ……、もしも私が全ての記憶を失って、今ここで目覚めたならば、そういう事になるのだろうか。そんな事を思いながら、私は空を見上げてる。
 でも、全ての記憶を失ってしまったら、この船の操縦の仕方も忘れてしまってるに違いないから、それはとても困った事になる。水着で甲板の上に仰向けに寝そべって、背中と全身で船の揺れを感じながら、私はそんな事を考える。そして、何も急ぐことなんて無いのだと、再び目を閉じ、彼女の事を思い出す。

 彼女とは夜の店で出会った。彼女は接待を受けた高級クラブのホステスとして私の前に現れた。『ドレスで着飾っているだけの、話題を広げたり転がしたり出来ない女がお酌をしてくれるだけの店に興味はない』と言っていた私の価値観を、彼女は百八十度変えてくれた。彼女は自身の学歴をひけらかす事もなく、どちらかと言えば道化のような立ち回りで言葉を選んでいたようだが、どんな話題にも打てば響くような反応で、普通の女なら退屈してしまうような私の話にしっかり乗ってきた。

「情報工学と心理学をどのように組み合わせるかが、これからは非常に大事になってくると思うんだ」
「あー。AIって、ただの情報収集と情報出力のアルゴリズムに過ぎないって人と、『いずれ人類を支配するかも知れない不気味な存在だ』って思う人の両極がいますもんねー。難しい事は分かりませんけど」
 頭の中の整理がてらに呟いた私の一言に、ブランデーの水割りを作りながらアリサはそう言った。彼女のその言葉を聞いた時、私はホステスの顔をちゃんと見るという意識を生まれて初めて持った。彼女の瞳を見つめた私に、アリサははにかんだような笑顔を見せてくれた。

「現在の芸人というのは、ひと昔前の文化人のような意義を持っていると思う。大衆が戸惑ってしまうようなトピックに対して、『この件に関しては、このような思いをもって、このような反応をするのが【普通】なんですよ、と、見ている人、聞いている人を安心させるための言動をしている事がままある」
「人は、自分自身の価値観を正義と信じて、別の人の別の立場の価値観、正義と対立して、昔っから争ってきましたもんねー。そして、今はインターネットが、自分の価値感に近い人の意見ばかり入ってくる装置にもなっているし、その反面、中庸でいようと情報を得ようとすれば、それぞれに違う膨大な正義が入ってきますしね。安心するのも大変です」
 このような会話も印象に残っている。

「笑いというのは、実は攻撃性を秘めているんだ。昔、そんなSF小説を読んだ」
「ロバート・A・ハインラインの【異星の客】ね。私も随分前に読んだわ」
「笑いや平和っていうのは、人間の攻撃性を上手くいなす事で成り立っているんだろう」
「笑える、安心するというのは、もしかしたら、まやかしかも知れないけど、そうね。だからこそ、これからの情報工学には心理学が重要になるんだろうね、きっと」
 薄明りの中のピロートークでも、アリサは私を感嘆させた。アリサと恋仲になれた頃には、私はアリサの店に数千万の金を落としていたが、アリサと話をするのが楽しかった。アリサと二人きりのブレインストーミングが刺激的で仕方なかった。そんなアリサと互いの身体を野性的に貪りあう事が気持ちよくて仕方なかった。

 私の理性のタガがどうすれば外れるのか。アリサは私以上にそれを良く知っていた。互いの目線を絡ませるその秒数も、彼女の体臭がどの距離で私を惑わせるのかも、首筋から胸に流れて行くその汗の軌跡に捉われてしまう私の視線も、少し甘ったるさを含んだ声を私にだけ聞かせてくれるそのタイミングも、偶然のような必然で一瞬だけ生まれるスキンシップも、全てはアリサ主導のままに、今までの私を違う私に変えた。

 片足を引き抜こうと踏ん張れば踏ん張っただけ、反対の足が深みに沈んでいく。私が囚われてしまった沼は酒でも店でもクラブというシステムでもなく、アリサだった。いや、今にして思えば、アリサは私を沼に沈めるシステムそのものだった。
 私はアリサという沼に囚われ、首まで沈んでしまっていた。

 アリサが着用していたライフジャケットに不具合があると言って外させて、そして、この船からアリサを突き落とした時に思ったのは、『私もアリサという沼にライフジャケット無しで沈んでいるのだ。これで、おあいこだ』だった。

 小型のクルーザーとは言え、ボートとは違う。人間は水面を蹴って跳べはしない。それは、船のへりから梯子を下ろさないと海中にいる人間は船に上がれないという事。そして私には助ける気なんてなかった。それを悟ったアリサは、何も言わずに、無表情で私を見つめていた。
『あなたは、太客ふときゃくの一人。私は誰のものにもならないわ』と、私に言った時と同じ顔で、船の上の私を見上げていた。

 最低速度の自動操縦で進む船の上から小さくなっていくアリサを眺めていた。私のものにならないのなら、せめて、私と同じように沈んでくれ。そんな思いを確認した後で、私は甲板の上に寝転んだ。

 知っているのはこの空だけ。

 この空が知っているのは、私の罪と、私の、愛。

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