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5センチの傷がくれたメッセージ。
ここ1ヶ月の話。
今までにないレベルの"不運“が突然、立て続けに私の身に降りかかってきた。
少し時間が経って頭が整理できてきたので、こうして形にして誰かに伝えようと思う。
ここに書くのは、人生で最悪な1ヶ月を乗り越えるまでと、この体験を通して私が得られたこと。
もしあなたが今辛い時期にいて、限界を迎えそうなら是非読んでみて欲しい。
1ヶ月前の交通事故。
私はドイツで高級ブランドの接客員として働いている。
1ヶ月前のある日、交通事故に遭った。
いつも通り、職場に行って更衣室で着替えて、
同僚と雑談して、「土曜は本当に混むから嫌だ」なんて裏で文句でも言いながら、ミュンヘンのお金持ち達を接客するはずだった。
家から職場までの、たった5分の短い通勤経路。
この日、私の身体はいつも通りに職場へ辿り着くことは許されず、突然何か抗えない力のようなものに全く違うルートへ突き飛ばされたような、そんな感覚だ。
到底敵わない重くどっしりした鉄の塊がぶつかった瞬間。経験したことのない硬くて鈍い衝撃を思い出すと、今も身体が一気に寒くなる。
"元の自分"には戻れないということ。
30歳の誕生日を迎えた9日後、今まで続いていた日常から突然べりっと引き剥がされてしまった。
意識のないまま病院に運ばれ、出血した頭の傷を縫い、顔も身体も傷だらけだった。
単純に、この自分の状態が信じられなかった。
その日以来、外を歩くと時々フラッシュバックで過呼吸を起こした。いわゆるパニック症状だ。
頭に5センチの縫い目と走る車に対する恐怖が強く残り、"車に轢かれたことのない自分"には戻れないことを知った。
事故に遭った瞬間イヤホンで通話中だった彼は、私の悲鳴を聞いてすぐに隣町から2時間かけて駆けつけてくれた。
病院で見た私の姿はかなりショッキングだったに違いないし、フラッシュバックしては取り乱し、見えないものに怯えて泣き出す私を支えるのは本当に大変だったと思う。
"人生は普通にしていれば安全だ"と信じて疑わなかった足元の床を急に抜かれて、私はおかしくなってしまった。
念願の一時帰国でフライト欠航。
怪我が回復するまで3週間の傷病休暇を、私は彼の街で過ごした。
徐々に外もパニックを起こさず歩けるようになり、体力もついてきたので、
私を心配している日本の家族のために、元々取っていた有給休暇で一時帰国することにした。
しかし、コロナ禍の帰国は本当に厄介である。
直前に決めたので、慌ててPCRテストを受けに行った。
出発の日、空港まで来てくれた彼と別れ、国内線でまずフランクフルトへ飛んだ。6時間の乗り継ぎ待ちをした後、ようやく東京行きの飛行機へ乗り込む。
チェックインも問題なく、無事に席について一安心した。
ところが、一度滑走路へ向かった飛行機が駐機場へと戻ってきた。
どうやらコックピットのシステムに不具合が見つかったとのこと。
整備作業に1時間、また1時間と出発は遅延していき、ついに4時間が経った頃、「この便は欠航になりました」というアナウンスが入った。
4時間待ちぼうけた乗客のえぇ〜という声が飛行機内でどよめいた。
結局17時に乗り込んだ飛行機を降りたのは夜の22時。便は翌日に振り替えられ、フランクフルト空港のホテルに臨時宿泊することに。
最悪だ。なんでこんな目に。
なにより家族と日本で過ごせる貴重な時間をが一日減ってしまったことがとても悲しかった。
日本に到着、それでも続く悲劇。
長い旅を経て、ついに日本に到着。
いつも手の届かない、遠く遠くに感じていた日本と家族がもうすぐそこだった。
欠航で合計2日かかった移動も疲れも、もうどうでもよかった。
日本だ。
飛行機を降りて、コロナの検査の順路に進む。
一連の流れをやったことがある私は、さっさと通過して入国するはずだった。
ところが、書類をチェックするブースで陰性証明に不備があると止められた。ドイツで受けたPCRテストの検査方法が、日本の規定から微妙に外れているとのこと。
私はそのまま他の人たちから離され、奥の仕切られたスペースに待機させられた。…なんだか雲行きが怪しい。
はじかれてしまった私を担当する地上係員に、
「最悪のケースはこのまま折り返し送還となります。」
と説明され、え?ここまで来たのに…日本に一歩も入れないかもしれないってこと?
事態が深刻みを帯びてきて、心臓が口から出そうだった。
外で数時間待っている父と連絡しながら、冷や汗が止まらない。気が気ではなかった。
ドイツへ折り返し送還が確定。
3時間の拘束の後、係員が私のところへきた。
「○○様、明日の14時の便でドイツへ送還となりますので、このまま待機場所へご案内します。」
その言葉を聞いた瞬間、後頭部を鉄槌で思いっきり殴られた気分だった。
書類不備、自業自得だ。
どうして私は、何をしてもうまくいかないんだろう。
24時間以上かけて移動してきた疲労もあってか、私はタガが外れたように泣き崩れた。
泣いて体温があがり、抜糸したばかりの頭の傷がジンジン痛む。
かれこれ4時間近く外で待っている父に、送還が決定したことを電話で伝えると、
「ああ…そう?…やっぱりダメだって?」というその声から、冷静を保ちながら動揺を隠せない父の顔が目に浮かんだ。
お父さん、朝からずっと待っててくれたのに本当にごめんなさい。と泣きながら謝ると、
「お父さんはいいんだけどさ、明日の昼の便って、のりこはどこに寝るの?」
その会話が聞こえていた近くの若い女性係員が気まずそうに、
「待合のロビーで…ベンチのところに待機して頂く形になります。」と答えた。
その声を拾った父はすかさず、
「あの…こいつ事故に遭ったばかりなんですよ。いくらかかってもいいので、ホテルをとってもらえませんか。」と初めて語調を強めた。
いやいや、そんなの係員さん知ったこっちゃないよ、お父さん…。と思いながらも、私の涙は益々止まらなかった。
止まない雨はない、どん底に光が刺した瞬間。
私は覚悟を決めた。
今この状況で私に唯一できることは、父を安心させることだと思った。
携帯を握りなおし、できる限りの気丈な声で言った。
「もう一日くらい大丈夫だよ。せっかく遠くから空港まで来たのに悪かったね。係の人待たせちゃってるから、もう行くね。」
電話を切って顔を上げると、近くの警備員さんが私の前に屈んで、ティッシュを差し出してくれていた。
私を連れて行こうとしていた先程の係員は、何やら無線で仕切りに連絡を取りながら、私に向けて言った。
「私達でなんとか入国させられるかもしれません。」
"助けてくれる人"が、現れた。
"トンネル"をくぐり抜けた先に。
合計8時間以上の拘束を経て、私はついに入国を許された。
全ての手続きを終え、出口を出てすぐの所に父が立っていた。
朝から9時間近く空港で待ちぼうけた父の一言目は、
「おう、おつかれ。腹減ったろ。」
その後、一切私を責めることはなかった。
立て続けに災難に見舞われ、心身ともに限界を迎えた時、
「こんなに辛いことばかり起きるなら」と人生を放棄したくなった瞬間があった。
しかし、思わぬ形でその連鎖が突然終わり、ふっと風向きが変わったりすることもある。
この"最悪の1ヶ月”を振り返ると、数々の不運な出来事たち以上に記憶に残ったのは、
どん底にいる自分を必死に助けようとしてくれる人達の姿だった。
口に出さずとも、私のことを全力で守ろうとしてくれる不器用な父。
精神がすり減るほど心配してくれる母と姉。
血だらけの私を病院から連れて帰り、パニックを起こす度に「大丈夫だよ」と抱きしめてくれた彼。
仕事の休憩中に代わる代わる電話をかけてきて、明るく励ましてくれたドイツの同僚たち。
離れた日本にいながらも、自分のことのように悲しい顔をして心を痛めてくれる友達。
私の入国のために尽力してくれた空港の皆さん。
私がここで自分の人生を諦めたら、みんながくれた"優しさ"や"労力"を無駄にしてしまう。
何もない私に"先行投資"してもらったんだから、"リターン"を用意しなきゃ。
立ち直って、元気にまた人生を歩まなきゃ。
もういっそ死んでしまいたい、なんて思ってる場合じゃない。この人たちがピンチな時を助けられるように、強く生きていなきゃ。
わかりかけてきた、生きる意味。
“自分は何のために生きているんだろう?”
30年生きてきて、自分にそう問うたのは今まで一度や二度ではなかった。
今思えば、人生にどうしたら意味を持たせられるか、常にじわじわと苦しんでいたような気がする。
-何かを大きなことを達成したら?
-社会貢献できたら?
-結婚して、家庭を持てたら?
この1ヶ月が、そんなこれまでの考えを一切変えてくれた。
-怪我が治って普通に外を歩けていること、
-離れている家族と時間を共有できること、
-どんな時も支えてくれるパートナーがいること、
そんな些細な日常に、体の芯からじんわりと幸せを感じられるようになった。
私は一度、運命に心も身体もコテンパンにやられた。
頭には縫った傷跡がある。この先、お風呂で髪を洗うたびに触れてはあの事故を0.1秒でも思い出すだろう。
事故に遭う前のまっさらな自分にはもう一生戻れないけれど、
人生の意味がなんとなくわかりかけてきた5センチの傷付きの自分が、
今はなんだかすごく好きだ。
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