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 【エッセイ】「マルモイ ことばあつめ」

 私たちにとって、「言葉」とは何だろう。

 私たちは、生まれてからある程度生きると言葉を覚え、人と互いに意思の疎通を図るようになる。機能的な面から考えると、「言葉」は、人と人とのコミュニケーションツールと断言できるだろう。しかし、この映画を見て、「言葉」は決して、それだけの意味を持つものではないことを改めて知った。

 時は1940年代初めの日本統治時代、舞台となるのは、朝鮮の京城(現在のソウル)。朝鮮の人々は、だんだんと朝鮮の言葉を禁じられるようになり、朝鮮の言葉で書かれた刊行物や書籍などの取り締まりが厳しくなっていく。この映画は、そんな厳しい状況に置かれても、朝鮮の言葉を集め、朝鮮の言葉の辞典を作ろうとした人々を描いた物語だ。

 この映画が実話を元に作られたものだとは知っていたが、これほどの壮絶な物語があったとは…。

「言葉」とは精神。
「言葉」とは生命。

 虐げられながら消えゆく「私たちの言葉」。それを命をかけて守ろうとする人々の熱量に、私の胸は熱く、苦しくなった。

 もしも、ある日突然、皆にとっての「私たちの言葉」が奪われたら、人はどうなってしまうのだろうか。「言葉」は、人と人とが意思疎通を図るための道具である以前に、人、延いては民族がその土地に暮らしながら、長い時をかけ築いてきた文化や情緒のかたちであり、そこには「精神」が宿っている。そしてそれは、人が生きていく上で核となり、「生命」にも値するだろう。もしも、「私たちの言葉」が奪われてしまったら・・・。自分が自分でなくなる。生きていても生きてはいない。そういう感覚ではないだろうか。つまり、「言葉」が奪われるということは、「精神」、そして、「生命」が奪われるということと同じなのだ。

 概して、いったん植民地支配されると、元来の民族の言葉は喪失し、その後独立を果たしたとしても、元来の言葉は取り戻されることがないと言う。世界の国々を見渡しても、その通りだ。しかし、朝鮮半島では、独立を果たし、朝鮮の言葉を取り戻した。それは、どんなに虐げられようと、何度も何度も「私たちの言葉」を集めようとした人々の思い、そして朝鮮すべての人々の思いがひとつとなり、大きなエネルギーとなり、そうさせたのだと、私はこの映画を通して感じている。

 まさに、奇跡の言葉。

 生きていてくれて、ありがとう。

 私は率直に、こうも思っている。私は韓国語を学び始めてから、韓国語自体はもちろん、その言葉からにじみ出る文化や情緒にも魅了され、まるで何かに突き動かされるように、韓国と韓国語に関わり続けてきた。そして、この映画を通して、さらに韓国と韓国語への思いが強まったような気がする。「奇跡の言葉」へ日々感謝の気持ちを忘れずに、これからも、たくさんの愛をこめて、大切に…。韓国と韓国語に関わっていきたいと思う。

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