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「ゆるす」という言葉が想像より奥が深かった

自分自身をゆるしましょう
ってよく聞くけど「自分をゆるす」ってなんだろう?
「自分をゆるす」を言語化してみたくなった話。

許すのか赦すのか

「自分をゆるす」とあえてひらがなで書いたのには理由がある。
「ゆるす」には2つメジャーな漢字があって、「許す」と「赦す」は全然意味が違う。

「許す」は望みを受け入れるとか、許可するとか自由にさせるという意味。
「赦す」は罪や過失を責めない・咎めないの意味。

広い意味で「許す」が使われることの方が多いので、自分をゆるしましょうの時もだいたい「許しましょう」だと思う。

でも、ふと思ったのだ…
「この場合のゆるすってまずは赦すなのではないか?」と…。

だって捕まった人も、
罪を赦してお咎め無しにしないと、自由になれないよね…。

じゃ、何を赦すのかって話

いやいや、なんの罪も犯してないのよ…と思うかもしれないけど、私たちは知らない間に「罪だ」と思い込んでることがたくさんあるんだと思う。
それは、犯罪という意味ではなくて人間関係において。

・こんな事したら良い子だと思われなくなっちゃう、ごめんなさい。
・女子なのに、こんな事してごめんなさい。
・母親なのに、こんな事も出来なくてごめんなさい。
・妻なのに、家事もろくにしなくてごめんなさい。
・ここで失敗したら失望されちゃう…そんな私でごめんなさい。

「ごめんなさい」ってなんで思うかって、悪い事してると思うから。
いわゆる「罪悪感」

色んなことに「罪悪感」を感じている自分の心を、「もう大丈夫だよ」って「赦して」あげる。

罪悪感ってだいたいが思い込みで、本当は何も「罪」を犯していないのに私たちは罪を犯しているように感じてしまう。
だから、「それは罪じゃないよ。あなたは何も悪くないよ」って自分で自分の心を「赦す」しかないのだ。

赦した上で許していく

自分の心を赦してあげたら、今度は自分に行動を「許して」あげる。
それをやっても大丈夫だよという「許可」を出す。

世の中には「やり方」だけがたくさん溢れていて、それって行動ベースだなといつも思う。
それこそ、やりたいことリストだってそう。

だけど、書いても書いても叶えていけないのは自分にやる事を許してあげられないからなのだけど、行動できない自分がダメなんじゃなくてもっと奥底で「赦し」てないからなんだと思う。

例えばだけど、1人で映画観に行きたいと思ったのに行動出来ないとして。
その裏に
・週末1人で映画みたいって言ったら家族がなんて言うかな…
・観るなら安い日に観なくちゃ
・あぁこの時間じゃお迎えに間に合わない
とか色々な理由をつけて行動出来ないわけ。

それって、多分1個1個自分に課してる何かがあって、それを破る事への「罪悪感」から「赦せない」し「許せない」のだと思う。

これは自分への盛大なブーメランでもあるけれど、行動出来ない時にはやっぱり自分が感じている「罪悪感」を「赦す」のが先なのだ。

って数ヶ月前に書いたまま、下書きに入れていたこのnote
今読み返しても、「え、良いこと書いてあるじゃん」と思ったので投稿することにする。

たくさん、たくさん自分を「赦して」きたつもりだけど、
きっとまだまだ「赦してほしい…」と思っている自分が存在する気がする。
私はずっと「誰かの役に立たないと意味がない」と思って生きてきたから、
まだまだ「誰の役にも立たない私でごめんなさい」が根っこにいて。

「誰かの役に立つこと」をずっと考えてきたけど、
本当の私は「私の為に生きること」を心底望んでいるんだ。
だって、書きながら今泣いてるから。
「誰かの役に立たなくても良い」って私が私に言って欲しがってる。

そんな夏の日。

余談だけど、英語だと「forgive」一つで「許す」も「赦す」も含まれていて。
日本語って奥が深いな…。
その奥深さが私は好きだ。

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