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iittalaは私を幸せにしてくれるのか問題

どうして、「ない」ばかり人は見てしまうのか。
そして、そこが埋まりさえすれば幸せになると思ってしまうのか。

この問題を考える時、私はずっと一部が欠けた円を思い描いていた。
だから、欠けた円の残りの部分を見れば良いって表現していたのだけど、なんだか違うなと今思い立った。

一部が欠けた円だどすると、その欠けた部分が少し「ある」になるだけで全体は欠けた円のままなんだよね。
だから、「やっぱり欠けてるじゃん!埋めなくちゃ!」ってなると思う。

そうじゃなくて、私たちは点線の円なのではないか?と。
点線だから、「ない」部分はたくさんある。
その一つを埋めても、また次の点線が途切れた部分が気になる。
「ない」を見ている限りずっと次の切れ目を埋めたい衝動にかられてしまう。

だけど、点線の円で「ある」を見た場合もうしっかり「円」なのだ。
そこにはきちんと丸が存在する。
そう思ったら、「ない」を見るじゃなくて「ある」を見るの意味がより明確になった気がした。

ちなみに、タイトルにあげたiittalaは私の「ない」問題の代名詞。
昔の私がこれが無いから不幸で、あったらもっと幸せになると思っていたのがiittalaのお皿だった。

あのママ友もこのママ友も使ってるiittalaのお皿。
それがないからご飯作る気にもなれないし、家も片付かないし、毎日私は不機嫌なのだとさえ思っていた。

iittalaのお皿をあなたが買ってさえくれたら、私はご機嫌になれるのに
あなたが買ってくれないから、私は不機嫌なのだ
と自分の機嫌を夫に取ることさえ強要していた。
恐ろしい…。
恐ろしい話。

これがあったら幸せ
なんてことはあり得なくて。
どんな時でも本当は幸せだし、何もなくても幸せになれるはずなのに。
iittalaに私の幸せを全権委任していたなんて…。
見ず知らずのiittalaに…
もはや、他人軸どころか人ですらないし。

きっと、当時の私はiittalaを手にしたら次はダイソンがないから不機嫌だとか、
ウェッジウッドのカップ&ソーサーが無いから不幸だとか言ってたと思うわけ。
それくらい「ない」を見て、そこを物質的なもので埋めようとしていたから。

今思うとそんな私が愛おしい…
わけもなく、本当に夫に土下座してお詫びしたい気持ちである。
夫、ごめんね。
でも、これは読まないで。恥ずかしいから。

そんな不毛な「ない」を見るのを卒業したお祝いなのか、
その時から欲しいと思ってやまなかったお皿が先日私の元にやってきた。

あぁ見てるだけで幸せ
これを使うと思うとウキウキする
何を一番に乗せようってニマニマしちゃう

幸せってそういうことだよね。

iittalaがあれば幸せになる
わけではないけれど
やっぱりiittalaは私に幸せを運んでくれたなぁと思うのだ。

さて、どんなティータイムを過ごそうかな…

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