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「明日」じゃなくても

その日の私は滅多に着ることのない母の形見のコートを着ていた。
ちょうど冬物のコートをしまい込んだばかりで、その日の気候に合いそうなのがそのコートしかなかったのだ。
滅多に着なかったのは、そのコートの色と形のせい。
明るい水色で、デザインも私よりもっと年齢の下の人向けのように見えたから。

終業の鐘が鳴り、帰り支度をした。
図書室のある建物を出たところで、向こうからやってくる女子学生に気がついた。

その前から遠目にも妙に私のほうを見ているように思ったので、「若い人から見ると、今日の私は何か変な格好してるのかな。若作り、とか」と気にしながら、私も彼女のほうを見た。
マスク越しにも整った顔立ちとわかる。
が、心当たりはない。

ところが、すれ違う際に「こんにちは」と声をかけてくれた。
それで、昨年度図書室によく来てくれたMさんだとわかった。
「気づかなくてごめんなさい」と謝る。
髪型と顔立ちが少し大人びたようで、声を聴くまでわからなかったのだ。

「これからサークルです」と彼女は言う。
そして「また行きますね」と微笑む。
私も「ぜひ利用してください」と返す。

それでそのまま分かれるはずが、「そうだ」と彼女が振り返って私に呼び掛けた。
「明日、開いてます?」と聞く。
「通常通り開いていますよ」と答えると、「じゃあ明日、必ず行きます」と手を振ってくれた。
無理してこなくても大丈夫だよと思いながら「都合がよければね」と私も手を振った。

それが、10日前。

待っているわけではないが、彼女は来ていない。

社交辞令とは「つきあいをうまく進めるための儀礼的なほめ言葉やあいさつ」(『デジタル大辞泉』など)を言うらしい。
さて、それでは、先のひとこともやはりそれだったか。
そんな日常の挨拶も使いこなせなかったり、誤解したりするのは、私もまだまだ大人じゃないってことだろう。

そんなことを思いながら、この話を投稿しようとした今日、彼女はやってきた。

「明日」じゃなくても「必ず」。
今日は来てくれてありがとう。

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