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「心の差別をなくせばいいのよ」ペイ・フォワード記事Vol.32

多様性社会でお互いさまの街を広げるための心のあり方に向き合いたい

他の人と違うことを際立たせることは差別につながる?

前回の記事で書いた長野県の高校生四人とのお互いさまの街ふくしまツアー。その中で特に印象的だったのが、株式会社クラロンさんの見学中の質疑応答の一幕でした。「他の人と違うことを際立たせることは差別につながるのか」。私としてもこのときのやりとりはとても大きなテーマだと感じており、じっくりと咀嚼して学びに変えたいと思っていました。そこで今回記事を書きながら多角的に考えてみたいと思っています。この疑問について考えることが、多様性社会の中でお互いさまの街を広げていく上で必ず重要になってくると直感しています。

高校生と訪問し感激 福島県が誇る会社 株式会社クラロン 


まずは、株式会社クラロンがどのような会社なのか概要を説明します。

                 株式会社クラロン公式ホームページ

株式会社クラロンは1956(昭和31)年、田中善六と、その妻である須美子(現会長)が、メリヤス肌着の会社を社員ごと引き取り、福島県福島市で創立した。
2016年で創業60年。1964年の東京オリンピックを機に「これからはスポーツ衣料の時代になる」と、事業の中心を肌着からスポーツ衣料に移した。[現在は東北や新潟、栃木、茨城などの幼稚園、小学校、中学校、高等学校、福祉施設など約1,200の学校・施設に、運動着や介護衣料などを納めている。

経営方針は「すべての人が望む健康づくりのため、スポーツウェア製造を通じ、社会に貢献できる会社を目指す。ユーザーの立場に立って研究開発に努めた製品を廉価に提供することによって、学校教育やスポーツの発展に寄与する」としている。

創立当時の従業員は7名。そのうち3名は障がい者だった。1969年、中学校の教師から「知的障がいのある子を採用してくれないか」と依頼を受け、数人を雇用した。現在(2016年3月末時点)の社員は134名、そのうち障がい者は36名いる。障害者雇用率は35.1%で、福島県内トップの実雇用率である。

社員の定年は65歳としているが、希望すれば延長することができる。現在(2016年3月末時点)は60歳以上の従業員が20名に上る。最高齢は80歳の女性営業課長。管理職の半分以上を女性が占めているのも特長である。

2016年に編集されたWikipediaより

福島市では、誰もが働きやすい職場環境づくりに取り組んでいる企業を認証しているそうです。 そのうち特に優れた取り組みをしている「“ゴールド”認証企業」の紹介動画を配信していて、クラロンさんの動画も見つけました。

この他の障がい者雇用推進ゴールド認証企業は以下のURLから見つけることができます。

そして株式会社クラロンさんは障がい者、女性、高齢者の働きやすい会社として多数の賞を受賞されています。たとえば平成27年(2015年)には、第5回「日本でいちばん大切にしたい会社」の「厚生労働大臣賞」に選出されています。

『日本でいちばん大切にしたい会社5』にも取り上げられていて、以下のURLで一部を読むことができます。

「厚生労働大臣賞」と「日本でいちばん大切にしたい会社」に選出されたことについて触れている、田中会長のお話はこちらからご覧いただけます。
「人を大切にする経営とは、言うことは簡単ですが実行することは大変です」とおっしゃったうえで、その具体的な実践内容をお話しくださっています。

田中会長の他のメッセージに興味がある方は、こちらからご覧ください。


「障がい者のための制度は障がい者を差別していることになるのか?」

今回私は、この大きな問いについて考えてみたいと思います。

株式会社クラロンさんは、障がい者雇用率が大変高いことで有名です。先日高校生と訪問させていただいた際に、高校生が「『障がい者』を雇用する、というように、その人を『障がい者』ととらえること自体、自分と違うことを際立たせ、その人との間に壁を作ってしまうという意味で『差別』になるのではないか」、というような素朴な疑問を口にしてくれました。なるほど、ある特色を持つ人に呼び名をつけることで、その人をその呼び名が含む概念で捉えてしまうのではないか、という危惧だったのではないかと思われます。
このことについて田中会長は、「その人のことを障がい者だと思って接したことはない」、とおっしゃっており、いわゆる障がい者の方のための制度があることと障がい者だと思って接することが別物だということを教えてくださっています。これがどういうことなのかを掘り下げていきたいと思います。

「差別」と「区別」はどういう意味?

まず考えてみたいことは「差別」と「区別」という言葉の違いについてです。大分県の日出町のHPに、この二つの違いが簡潔にまとめてありましたので紹介します。

https://www.town.hiji.lg.jp/kurashi_tetsuzuki/jinken_danjokyodosankaku/jinken/1/reiwa3nendo/2258.html#:~:text=%E3%80%8E%E5%B7%AE%E5%88%A5%E3%80%8F%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E5%BA%83%E8%BE%9E%E8%8B%91,%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E4%B8%8D%E5%BD%93%E3%81%AB%E6%89%B1%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%82%E3%80%8F

『差別』とは、広辞苑によると、『差をつけて取りあつかうこと。わけへだて。正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと。』(中略)
『区別』とは、『違いによって分けること。また、その違い。くわけ。けじめ。』(広辞苑)となっています。(中略)
ただし、区別する側に差別的な意図があれば、それは『差別』になりますし、区別された側が差別だと感じたら、それも『差別』です。

大分県日出町広報11月号更新日:2022年06月07日(2024年4月25日閲覧)

「差別」は行ってはいけないという意識が広がっていますが、「区別」も行う側やされた側に「差別」の意識が上れば不当になる、という主観的な要素がありそうだということが興味深い点です。

法務局のHPに、『「差別」と「区別」は違う意味』というタイトルの中学三年生の文章が掲載してありました。「違い」についての捉え方に光を与えてくれる包容力のある文章です。

https://houmukyoku.moj.go.jp/wakayama/page000001_00428.pdf

この文章の中にある、「違い」が生まれるのは当然で得意不得意も違うのにそれを全て平等にしようとする中に無理が生じるという点が、とても大切な指摘だと私は感じました。違いを理解し尊重することで最善策が見えてくるという、人と人がつきあう中での根底となる姿勢を再確認することができます。

また、以下のサイトでは「差別を深堀りする(その 1)それって差別?それとも区別?差別はなぜ悪いの?」というテーマで、より具体的な場面を想起し、それが「差別」か「区別」かを考えたという記事が紹介されています。次の七つの事例について、それぞれ「差別」「正当な区別」「不当だが差別ではない」「またはそれ以外」のどれに当てはまるかを考え話し合ったそうです。

1. 入学試験で、視覚障害のある受験生に追加時間を保障する。
2. 試験で、女性や黒人の受験者の得点を減点する。
3. 大学等が、入学の可否や成績評価を「クジ引き」で行う。
4. 教師が、実験などの後片付けをもっぱら女子生徒に依頼する。
5. 教師が、重いものを運ぶ作業をもっぱら男子生徒に依頼する。
6. 鉄道会社が、痴漢被害・加害率に基づいて、女性専用車両を設置する。
7. 会社が、産休や育児休暇取得率に基づいて、同じ能力を持つ求職者の内、男性を雇用する。

一般財団法人アジア・太平洋人権情報センターHP(2024年4月25日閲覧)

具体的なケースをもとに考えると、「自分がこの場面に遭遇したらどう感じるだろう?」とより理解が深まりますね。もしかして、一義的なものの見方ではなく、より多角的な見方ができてくるかも知れません。さらに、「差別」は、その人を傷つけたり、機会の喪失につながり得るのでいけないことだ、という説明も分かりやすいです。


「形式的平等」と「実質的平等」?

ここまで「差別」と「区別」について考えてきました。その中で、「形式的平等」と「実質的平等」という言葉に出会いました。これらはどのような意味なのでしょうか。

桃山学院大学がインターネット上で公開している「平等について考えよう」という資料では、形式的平等(機会の平等)と、実質的平等(結果の平等)について言及しています。そして「事実上の差異を無視してまったく機械的に均一に扱うことはかえって不合理な場合や非現実的な場合が生じる」、その結果「合理的な区別は許容され、不合理な差別だけが禁止される」とあります。

https://www.andrew.ac.jp/event/open_campus/pdf/momoyama_opencampus220911online_J.pdf

また、JICA国際協力機構の示している資料にも「形式的平等」と「実質的平等」の違いについて言及してあります。

https://www.jica.go.jp/Resource/activities/issues/governance/portal/vietnam/ku57pq00002khnos-att/vnu_11.pdf

そもそも、「平等」とはどういうことなのでしょうか。日本国憲法けんぽうでも法下の平等が第14条1項に定められています。

平等権とは、自由権・社会権・参政権等に並ぶ基本的人権の一つです。

見解の差を話し合うことこそ人権感覚を磨く鍵

このように、「平等」について考えることは、「人権」について考えるために大変重要な項目になってきます。この記事の冒頭で、「障がい者のための制度は障がい者を差別していることになるのか?」という大きな疑問を立てましたが、これは障がい者の人権を考える上でも重要な疑問なのです。

こう考えたときに、『差別と社会』というタイトルの大阪市立大学名誉教授 野 口 道 彦さんの論文を読み進めると、次のような指摘があり大変興味深く感じました。

https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/1418/00121109/02_kyozai_9_ronbun.pdf

異なった取扱いも合理的だと考えて「納得がいく」とみるのか、「納得がいかない」とみるのか、さまざまな意 見の食い違いの中に、人権感覚を豊かにするヒントが隠されています。皆が同じ意見だったら、人権を深く考 えるきっかけをなくします。意見の違いの背景には、それぞれどんな見方をしているのかが浮かび上がってきま す。自分がどのような価値観を大事にしているのか、気づくようになります。  
ある行為が「差別である」として糾弾の対象となるのか、それとも、「単なる区別」だとして問題にならないの かは、社会規範がおおいに関係しています。

『差別と社会』大阪市立大学名誉教授 野 口 道 彦さん

他者と異なる取り扱いを合理的と考えて「納得がいく」のか「納得がいかない」とみるのかはその人によって違うと思うし、その考えの相違を共有し意見交換をしていくことが人権感覚を磨き、さらには他者への思いやりのある姿勢を培っていく土台になるのだと考えます。

過去に書いた記事で、この考えに関連するものがありましたのでここで紹介します。

「心の差別」は自分にも行っている?

今回の記事のタイトルともなっている「心の差別をなくす」という表現は、株式会社クラロンの田中会長の言葉です。実際は個々人を一人の人間として接しているに過ぎないのに、そこに「差別」というフィルターを持ち込んでいるのは自分自身の心持ちの問題ではないか、というご指摘です。
このことに関して、自分の失敗談としてみなさんに共有したいことがあります。それは、自分自身に対して「心の差別」をしてしまっているのではないか、ということです。

たとえば、私は「ママ友」という言葉になじめませんでした。私には子どもがいて、もちろん我が子からすれば私は「ママ」なのですが、「ママ」というのは私を表す一部であって全てではありません。そこで、「ママ友」という言葉が、いかにもママという側面を強調しているように感じられていたのです。「たまたま友だちになった人に子どもがいた」、という感覚の方が私にはしっくりきていたのです。今となれば、子どもを介して機会があって知り合いその人と友だちになったのであれば、なにも「ママ友」という言葉に嫌悪感を抱かなくてもよかったのではないか、とも思えます。これは私が自分自身を「ママ」や「ママ友」という言葉を使って表現することに対して抱いていた心の差別、心の偏見とも言えます。「ママ」を強調されることで「自分」が失われるのではないかという恐怖心があったのでは、と振り返っています。

もう一つの例を挙げます。実は私は、旧姓が大好きで、なぜ結婚すると女性だけ名字を変えなければならないのか不服に思っていました。でも最近いろんな人と話をしていると、「旧姓だと珍しくからかわれていたので結婚して名字が変わった時にほっとした」というエピソードを聞くことがありました。「結婚して女性の戸籍上の名字が変わった」ということは同じなのに、そのことに嫌悪感を抱くのか、はたまた真逆のほっとする感情を抱くのか、それはその人の心もち次第なのです。私はかつて、新しい名字で呼ばれると、女性として「差別」されている気になっていたのですが、最近は名字にそんなにこだわらないようになっています。名字は変わっても私が私であることに変わりは無いからです。むしろ今の名字は珍しいので、話の種にしたいときはあえてそちらを名乗ることもあるし、電話でレストランの予約をするときに新しい名字を名乗るとたいてい聞き取ってもらえないので旧姓を伝える、など、便宜上で使い分けています。結局、自分が自分に対して心の差別を取り払ったら、自分を苦しめる必要はないと感じています。

さらにもう一つ。私がマレーシアで青年海外協力隊として働いていた頃のこと。いつものように仕事が終わりボートで川を渡って家路についていたら、地元の人に「チャイニーズ?コリア?」と聞かれました。この時私は「アイム・ジャパニーズ!」と言って、自分が日本人だということを強調しました。それまで自分が日本人だ、と強く意識したことはさほどなかったのにも関わらず、その時は「日本人でないと思われたくない」という感情が出てきたのでしょうか。今となれば、中国人でも、韓国人でも、日本人でもなくて、「アイム・ノリコ!」と言えたらよかったのにな、とも思います。国籍なんて関係ないよ、私たちは同じ地球市民なんだから、と。

このように私のこれまでの思考や体験を振り返ってみると、自分で自分が差別されていると思い込んでしまうことはあるのだな、と感じます。もともとは差別するための制度や言動ではなかったとしても、「私はこうありたい」「私はこう思われたくない」という気持ちが強すぎたら、「自分自身に対する心の差別」(差別されているという感覚、差別されたくないという感覚)を強く持ってしまうことになってしまうと思うのです。裏を返せば、制度や言動に差別の意図がなかったとしても、ある人にとっては居心地が悪く感じることもあるので、これも気をつけなくてはいけません。

でも私が田中会長の言葉から学び取ったことは、「他の人を心で差別してはいけませんよ」ということの他に、「自分の思考が作り出した差別で自分の心を縛り付けてはいけないよ」ということなのです。

実質的平等のための仕組みを受けるかは本人の自由

もう一つ考えたいことは、実質的平等のための仕組みについてです。特別な立場や状況の人への仕組みが用意されていることは「差別」ではないし、それを利用するかどうかは本人が選択していいのではないかということです。私は子育てをしているので「子どもの一時預かり」という仕組みを例に挙げて説明します。
私は子どもが生まれて、いろいろな場所や機会に子どもを連れて行きました。もちろん、まめにお世話をする必要があるので、お母さんとしては休みも必要です。でもお母さんの立場だと、「人様に迷惑をかけてはいけないからできるだけ家にいよう、人に会わないようにしよう」と考えることもあります。そんな人のために、「子どもの一時預かり」という、必要な場合に子どもを数時間みてくれて母親が一人の時間を過ごせる仕組みがあります。友人もこの仕組みを利用して、美容室に行ったり学びの時間に充てたりしていました。
一方で私は、赤ちゃんを連れて街に出る、ということを貫いていました。私にとってそれが楽しかったし、行く先々で赤ちゃんの面倒を見てもらうことになったとしても「可愛い赤ちゃんをだっこさせてくれてありがとう」とお礼を言われることもありました。もちろん、この場所は赤ちゃん連れはできません、といわれることもありましたが、それに納得がいかない場合や合理性に欠けると思える場合には、状況がよくなるように相談したこともありました。
この時私は、「母親」として社会から「区別」されることがあっても、子どもがいるからという理由で不当に「差別」されたくないと思っていたのです。
そして、母親向けのサービスや仕組み、たとえば子どもの一時預かりや児童手当があることは、「区別」であっても「差別」とは思いません。社会の様々な場面で、他の人や他の時期よりも大変だろうから特別な配慮やサービスを用意していますよ、ということはあります。たとえば、障がい者雇用や、学生割引、低所得の子育て世帯に対する子育て世帯生活支援特別給付金などです。障がい者だから、学生だから、低所得者だから、「社会的弱者」と見なされたくない、と感じられる方もおありかと思います。(「社会的弱者」という表現については、これまたとても深い学びがありそうなので、いつか考察してみたいと思います。)私が子どもの一時預かりは使わなくても街歩きできるんじゃないかな、子連れで街歩きがしづらいとしたら、社会の方に何か障害があるのではいかな、という感覚も似ているかもしれません。

しかし現実的には、就職の機会が限定されていたり、収入が低い状況・時期だからこのサービスを使わせてもらうと生活しやすい、ということもありえるわけです。クラロンの田中会長がおっしゃるように、私たちがいつまでも五体満足でいられるかはわからないし、いつ障がい者になってもおかしくないのだから「お互いさま」です。だから、他の人と異なる様々な状況の人に特別な配慮がされることは、実質的平等(結果の平等)が実現され、基本的人権が尊重される意味で必要なのでしょう。

ここで、先ほどの「心の差別」という言葉に立ち返ってみましょう。このような一定の状況の人に対するサービスに対して、提供する側が利用する方に「差別」の気持ちで行っているのか、「思いやり」の気持ちで行っているのか、そしてそれを利用する人が「差別」と受け取るのか「区別による配慮」と受け取るのかで、随分感じ方が変わってきます。このサービスを受けるかどうかは本人が選択していい部分です。しかしその根本は「自分に対しても他の人に対しても差別の心を持ってはいない」ということなのではないでしょうか。

お互いさまチケットを使うときに生まれる心の差別?

「お互いさまの街ふくしま」では「お互いさまチケット」を普及しています。これは思いやりの社会が広がると何が起きるだろうという希望と夢に満ちた壮大な社会実験ともいえるでしょう。ですから、この仕組みにはチケットを使う人への「差別」の意識はないのです。

一方で、「お互いさまチケット」を使おうとしたときに感じる引け目や遠慮、自分は自力でなんとかやっていけるぞという自尊心。これらはどれも自然な感情で、なくす必要もないと思っています。もし、「本当は使ってみたいのに」という隠れた氣もちがあるのであれば、自分に対する心の差別を一度どけてみて、「困ったときはお互いさま」、「金銭的には困ってなくても体験してみたら何が起こるかな」と「体感」してみてもよいのではないでしょうか。その結果、「自分もチケットを買って送りたい」とか、「自分もチケットを導入したい」とか「今日は感謝の氣持ちに溢れているから自分にできることで人を喜ばせたい」とか新たな発見が生まれるかも知れません。

自分への心の差別、他者への心の差別。それらが作り出している幻想や障壁がなくなったら、もっと生きやすい世の中になるかもな、などと思うのです。

今回はとても大きな話題について考えました。今後もゆっくりゆっくり考えて自分なりに納得していけたらなと思います。






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