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「お互い様の街」を成り立たせる心もち ペイフォワード記事Vol.6 

お互い様のふくしまバージョン2!みんなの食糧庫

BLTカフェの取り組みとしてオーナーのハグさんが生前立ち上げたお互い様のふくしまバージョン2、みんなの食糧庫(記事Vol.3にも登場)。今回はこれを事例にあげながら「お互い様の街」を広げていくときにどんな心持ちがポイントになってくるのか考察します。

それ以前にもBLTカフェで実施されていたペイフォワードカフェは、飲食店で取り入れられるタイプのシステムでした。

一方で「みんなの食糧庫」はフードロス(規格外の野菜などを有効活用したい)の観点から始まったこの取り組み。「恩送り」「フードロス」「子育て」「貧困」「コロナ」など色々な理由で、まだ食べられる物を循環させていこうというもので、誰でも気軽に始められるのが特徴です。

「誰でもご自由に」お互い様の精神で広がってほしい!

こういう取り組みについて始めて知ると、「そんなにもらう必要はないのに、たくさんもらう人がいるのではないか」「一人占めして、全部持って行ってしまう人もいるのではないか」などという疑問が生じてきませんか。そういう人がいないようにするためにはどういう対策をすればいいのだろうか?という「リスクヘッジ(危機の想定と回避)」の思考が働くこともあります。

ハグさんが上で紹介したビデオで言っているのは、同じ出来事でも「考え方ひとつで捉え方、見え方が変わる」ということでした。

(一人占めするような行動に対して)かっこいい大人の背中を見せてたいし、子どもが全部持っていったらそれはそれで嬉しいし。

見返りを認めてしまうと、期待を裏切られてしまい、イラッとすることもあるかもしれませんが。考え方ひとつで、どんな人が持って帰ってくれたのかな。どんな笑顔になっているのかな、と妄想を楽しむ。

https://www.youtube.com/watch?v=rWOA8_dxGPM
ハグさんのインタビューより

家庭で、社会で、心の居場所で、見せる姿は異なる

こんな話を聞いたことがあります。ある子どもはいつも学校の給食でたくさんお代わりをする、もしくはパンや牛乳をランドセルに入れて持ち帰っている子がいる、と。学校ではもしかして「食いしん坊」と思われているかもしれません。でもなぜそういう行動を取っているのか、理由は本人にしか分かりません。こんなことは考えられませんか?家庭で十分な食事ができないので給食でひもじさをしのいでいる、持ち帰った給食は夜ごはんや朝ごはんとして食べたり家庭で誰かと分け合っている、月曜日の朝はぐったりしているのはやる気がないのではなくて給食のない土日がつらくて気力が持たないのかも。目に見える行動だけでは、その人の事情を判断することはできない、という一例です。

学校や職場で見せる顔というのは、その人のすべてではありません。今朝ラジオでこんな話を聞きました。

自分の子どもが家でぐうたらしたり、あいさつもろくにできずにいたので思わず叱ってしまいました。そういうたら子どもに「お母さん、私は学校や塾で気を遣っているんだから、家では充電しているんだよ。」と言われてしまいました。

2022.12.9 Date FMより


自分自身もそうですが、家庭での顔、職場の顔、そうでない場所での顔など、多様な顔をもっていると思います。それは決して悪いことではなく、場面によって自分の立場や役割、リラックスの度合いなどが変わるので、それに応じた態度を取っているということなのではないでしょうか。それらを統合したものが個人なのであって、たまたまある姿を見たからそれがその人のすべてだと言い切ることはできないのです。

ここで妄想タイム

ではハグさんが言うように、たくさん持ち帰った人がいたとして、その事情をちょっと妄想してみましょう。

「もしかして、その人の知り合いが自分では取りに来られない状況なので、この人がまとめて持ち帰ってくれて、知り合いに分けてあげているのかも?(燕の子育てみたいなイメージ??)」

「もしかして、わざわざここまで歩いて何キロも移動しているから、来るために疲れた分と、これから疲れる分と一気に食べているのかも?」

「もしかして、この人一人が持ち帰っても次に誰かが物を持ってきてくれるのか、社会実験をしてくれているのかも?」

「もしかして、誰も持っていかないことを見かねて、この人がたくさん受け取ることで他の人が受け取りやすいようにしてくれているのかも?」

どれが正解か、ということは問題ではありません。その人の行動の裏側に隠されている事情はその人にしか分からない。だとしたら、その一面を見ただけでその人の存在自体を他者が批判することはできないのです。なんだかこのご時世で起きている様々なことに該当しそうですね。

「リスク」の発想はなぜ生まれるのか?

では、なぜ「一人占めをする人はいないだろうか?」というリスクを想定する考えが生まれるのか、考えてみました。思いいたったのは「平等」と「公平」と「公正」という言葉がごちゃごちゃになってしまっているからではないかとということです。

「平等」と「公平」と「公正」ということの目的の違いが理解できると、「支援をたくさんもらうこと」の捉え方が変わると思います。

まず、言葉のイメージを分かりやすく示している図を見てみましょう。

http://madewithangus.com/portfolio/equality-vs-equity/ より抜粋 2022.12.9現在

①平等
左上の「EQUALITY」が「平等」です。3人が野球の試合を楽しむ、という目的のために、それぞれの身長の違いを考慮せず全員が同じ支援を与えている状態が、ここでいう「平等」です。その結果、3人が野球の試合を楽しむ、という目的が達成されていないことが分かります。
「平等」という字の通り、全員に「平ら」で「等しい」支援がされていますね。支援は平等ですが、結果はどうでしょう。

②公平
次に右上の「EQUITY」=「公平」を見てみましょう。身長に応じて必要なだけの支援を得ることができた状態、これが「公平」です。その結果、全員が野球の試合を楽しむという目的を達成できました。
「公平」という字の通り、「全員」が「平ら」な結果(同じく野球を楽しんでいる)になっていますね。

③公正
最後に左下の「LIBERATION」を見てみましょう。これは「解放」という意味です。踏み台という支援を用意する前に、そもそも目の前の柵(障壁、障害)を取り除いてしまいましょう、という考え方です。障害となっているものは環境、システムや慣例、思い込みかもしれません。そこからの「解放」を目指すことが、結果的に「公正」であり、文字通り「誰にとっても正しいと言える状況となるのではないでしょうか。「公正」というのは誰もが納得できる状況ですよね。

「リスク」という発想をさせているのは、支援の種類や数は「平等」であるべきだ、という思い込みではないでしょうか?

③の公正な世の中は、発想の転換によって生まれます。人によって事情や状況は違います。恩を送る側、ギフトする側は、受け取り手の状況を判断できないのです。上のイラストでいえば、3人の状況や条件の違いを検討したり、支援の箱の数を議論するよりも、そもそも、何が障壁になっているのか、それを取っ払うことはできないか?と視野を一段上げて考えると、これまでになかった面白いことが思いつきそうです。

平等になるタイミングを持っていた支援物資

東日本大震災当時の記憶を友人が語ってくれました。

当時、避難所にたくさんの支援物資があるのに配られないまま山積みにされていたのを見つけました。なんでだろう?早く配ればいいのに、と思ってわけを聞いてみました。そうしたら、その避難所にいる人数は赤ちゃんや老人も含めて50人。だから、同じものが50個そろわない限り配れないんです。そういう避難所の運営の仕方を聞いてびっくりしたのを覚えています。

友人Rの回顧録

つまり、この避難所を運営していた人の発想は「全員が全く同じ支援を与えられるべき」という「平等」の発想です。でもすぐに気付きますよね。そういう非常事態に、赤ちゃんや心身のケアが必要な人に対して優先的に必要な物資を配っても誰も文句は言わないでしょう。

私は震災当時、女性の下着の需要があると聞いたので避難所に下着を送った経験がありますが、「この避難所には女性用下着が3着しか届かなかったので、全員に行きわたりませんね、だから配布しません。」とかいうことになっていたかもしれないですね。そこは、その現場の人の判断によるのだから、何が起こっていても私は腹を立てたりしません。

ハグさんが上のビデオで言っていた「期待をすると裏切られた時イラつくので、期待しない」ということの理由はここにあります。善意は手を離れた瞬間、受け取る側にゆだねられるのだと思います。だから、善意を送る側も受け取る側も、「公正」さをハートの真ん中に置いてみるといいのではないでしょうか。「全ての人が一定ラインより幸せであるためにどう行動すべきか」誰もが考えて恩を送ったり受け取ったりしできたら、お互い様の街がどんどん広がっていきそうです。

たくさんの選択肢から自分に合ったものを選べる社会

ハグさんが言っていた100件の「みんなの食糧庫」の意味は、こういうことではないでしょうか。つまり、誰かのために自分ができる形で思いやりを表現すると、さまざまな形になる。それはペイフォワードカフェかもしれないし、「みんなの食糧庫」や、「コミュニティフリッジ」(今後記事にします)、自宅の前に置いておく「ご自由にどうぞBOX」かもしれない。

そのすべての思いやりの表現の目的が「公正」(みんなにとっての正義=全ての人が一定以上の幸せが訪れている状態)であるときに、「お互い様」としての街が生き生きと動き出すのではないでしょうか。ハグさんの言葉でいえば、「No one left behind」誰ひとり取り残されない、ですね!

つまりは、このお互い様の街の一員として、私たち一人ひとりが「自分のこの行動は地域の皆が生き生きとした生活を送るために必要なんだ」と納得できるのであれば、それは公正だし、他の人からのご恩を受け取っていいものなんです。誰に判断されることなく、自分の必要性に応じで支援を受けることができるのであれば、「お互い様の街に生きていてよかったなぁ」と思えるのではないでしょうか。

だって、「困った時はお互い様」ということは、困っていない時は助ける側になるし、困った時は助けられる側になりうる。何に対して、どのくらい困っているかという「事情」は本人しか判断できない。だから、お世話になったと感じるならば、大きな声でありがとうと感謝して、その状況を脱することができたならば、自分なりの方法で恩送りをする。それがハートで繋がる社会なのではないでしょうか。

今回は、「みんなの食糧庫」を利用する人が自分の事情・立場を明らかにしなくていいケースについて考察しました。今後、困っている立場の人に限定して確実に支援を受け取ってもらうためのケース「コミュニティフリッジ」についても記事にしたいと思います。

読んでくださりありがとうございました。



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