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ペイ・フォワードには「・」が不可欠! ペイ・フォワード記事 Vol.13

募金活動をしていて感じた違和感

インドネシアの友人が2022年11月の西ジャワ島で発生した直下型地震で被災して避難生活をしているので募金をさせていただいていました。皆さまのご支援、心から感謝します。このことについては記事Vol.11で書いたのでよろしければご覧ください。(https://note.com/noriko_c_o/n/n1ac7c671fca5

その記事の中で「贈る立場の気持ち」にも想いを馳せることができたという内容を書きました。最近募金活動をしていて、またあることを学ばせていただきました。

「東日本大震災の時に、世界中の名もないたくさんの方から経済面、精神面でお世話になったから、他国で困難を抱え当ている人がいたら今こそ手を差し伸べたい!」

こんな風に思っている方が多いだろうと思い、募金活動をしていました。ところが、私がお声掛けをさせていただいた全員が募金をしてくれるわけではありませんでした。これは「そんなの当然でしょ?」「全員から募金してもらえるなんて押しつけがましいよ」ということだけで終わってしまうことなのでしょうか。

私は何か違和感を感じながら、募金してくださった方への感謝、募金はなかったとしても話を聴いてくださったことへの感謝をしてその場を去りました。

東南アジアで見た寄付する人々の姿

なぜ私が声をかけた全員が募金してくれなかったことに違和感を抱いたか。それは東南アジアの寺院や道端で見た托鉢の光景が頭をよぎったからです。マレーシアやミャンマーやタイで見かけた僧侶はたいへん落ち着いて思慮深く、住民に慕われていました。住民は、私の眼には決してお金持ちには見えませんでした。しかし、自分の家から食べ物を持ってきて僧侶に食べていただく姿を見ると、金持ちだから寄付できるということではない、と感じました。

つまり、自分のできる範囲で誰かを想って何かを分ける、ということは、どんな人間であってもできるのではないか、と思うのです。

正義とは何?子どもと学ぶビスケットのゆくえ

先日、友人と一年以上続けている美徳について学習会で、子どもたちにも精神的な美しさについて考えてもらおうと、子ども向けの学びの時間を設けました。その日のテーマは「正義」。正義とは何だろうか、と子どもにもわかりやすく説明するために、歌やゲームを楽しみながら学びを進めていきました。
その中のひとこまを紹介します。参加していた3人の女の子にビスケットを配りました。ただし、Aちゃんはお金持なので7枚のビスケットをもらいました。Bちゃんは普通なので、1枚ビスケットをもらいました。Cちゃんは貧乏なので何ももらえませんでした。このような設定の中で、「正義」であるにはどうしたらいいかな?と3人に考えてもらいました。

親としては、Aちゃんが2枚くらいずつBちゃんとCちゃんにあげれば大体同じ枚数になるから皆嬉しい、というハッピーエンドになるのではないかな、と固唾をのんで見守ります。

ところが、最初のアクションに皆驚きました。なんと、1枚しかビスケットを持っていなかったBちゃんがCちゃんにビスケットをあげてしまったのです!Bちゃんより幼いAちゃんは、たくさんもっているビスケットをお友だちにあげるという発想はなかったようです。一人で食べ始めてしまいました。(子どもらしくてかわいかったですよ!)最終的には母親に促されてAちゃんが他の2人にもあげることでその場は落ち着きました。

それにしても、1枚しか持っていないビスケットを、自分のものがなくなってもいいからお友だちにあげるということが、大人にできるでしょうか?

大人は、たくさん持っている者がもたざる者に分けることで「数字的な均等」がなされた時に、「正義」だ、と捉えてしまうのではないでしょうか。それは数字の上の公正かもしれません。でも、多く持つものが持たざる者に平等になるように分け与えることは、数字上の計算では簡単にできるとしても、実際に行動に移すことはできるでしょうか。また、持たざる者は他者に与えることができない、などと誰が決めることができるでしょうか。

もちろん、数少ないものを全てあげることで自分自身が飢える結果になればそれは本末転倒です。でも、なぜ少ししかもっていなかったBちゃんが自分のもっていた数少ないもの(もしくは、他人の目からは数少なく見えるもの)を他者にあげられたのか。

多く持っているか、少なく持っているか。その判断は他者と比較した時に生まれるものではありません。それは、現在の自分自身と対話したときに見えてくるものです。

これが、募金をしていた時に感じた違和感に答えをくれました。

今を大切に生きることが恩送り

私は、東日本大震災でつらい経験をした人たちなら、他の人の痛みを感じ助けてくれるだろうと考えていました。それも一部はその通りです。しかし実は、過去に受けた恩義を今ようやく返せる、という発想のほかに、こういう考え方もあるのではないでしょうか。つまり、「今を大事に生きることが、誰かへの感謝となり、恩送りとなっている」ということです。

私たちが東日本大震災を経験して今まで生きてきたのは、個々人が「今」を積み重ねてきた結果です。「今を大事に生きること」に集中し続けることが、当時支援してくれた人への感謝の気持ちを具現化したものだし、見知らぬ誰かへの恩送りになっている。私はそう捉えるようになりました。

だから、もし今自分の生活が満たされていて感謝の気持ちがあるのであれば、それを誰かにお福分けしませんか?という発想が、募金だったりペイフォワードチケットに繋がっていくのかもしれないですね。

「目に見えないものが大事」は本当だった

ところで、ペイ・フォワードは、英語で書くと”Pay it forword". ”Pay"(ペイ) と ”forword".(フォワード)の間に「it(イット)」があることにお気づきでしたか?「ペイフォワード」とカタカナ言葉に変換してしまうと、残念ながら「イット」の存在が消えてしまいます。

その結果、ペイフォワードカフェは、単なる「先払いのカフェ」と勘違いされてしまうこともあります。ペイ=払う、フォワード=前に向けて、という解釈してしまうと、なんだかお金に余裕がある人が、誰かのために物を買ってあげる、というようなイメージがわいてしまうからでしょうか。映画本編ではペイ・フォワードのことは「次へ渡せ」と表現されているようです。でも、一体何を次に渡すの?「イット」って何のことなのでしょうか?

映画の告知にも、やはり「・」が付いていました!


「イット」の重要性

私が考える「イット」の言い変えは、「感謝」です。

この映画のワンシーンで、この主人公の男の子は「ME(わたし)」を起点にして話を始めています。それは、自分自身が行動を起こすことの重要性を伝えるためですね。

ただ、その最初の「わたし」でさえも、実は誰かからの優しさのおかげで生かしていただいている存在ですよね。つまり、「わたし」は、この無数に繰り返される優しさの連鎖の起点ではなく、一部なのですね。必ずしも、この人からこうしてもらった、あれをしてもらった、という具体的なことを思い浮かべる必要はありません。

誰かのおかげ様で、今朝目を覚ましてまた生きていられる。
誰かのおかげ様で、今の私がある。
誰かのおかげ様で、私が誰かのお役にたてる。

「いま・ここ・わたし」に向き合った時に、生きている自分が喜ばしい、活かされていることに感謝の念が次から次へと湧いてくる!これが「イット」の正体ではないでしょうか。

ペイ・フォワードを日本語で「恩送り」と言い換えた時、この表現の中にはすでに「恩」という言葉が存在しています。私たちは恩送りをしようとする時すでに「恩」を受け取っているのです。それは何に対する「恩」なのか?それは「わたし」たちが「いま」「ここ」に生かしていただいているという事実に他なりません。

そう考えると、自分自身が今日も生きていることは当然のことのようでいて、様々な人や社会や自分の体のお陰様と感じられとても豊かな気持ちになります。そのことに気付けた時に、自分の持っているいくばくかのお金や技術や想いを誰かのために生かしていただきたいという思いが湧き上がる。そうやって寄付をしたり働いたり(はたらく=傍を楽にする)できるのでしょう。

先に出てきたBちゃんの例でいうと、自分が持っているものでCちゃんを幸せにしてあげたい。だってこのビスケットだって誰かからもらったものなんだから、という思いがあったのかもしれません。(深読みしすぎかも??)

ペイ・フォワードチケットは、「受け取っている」ことに気付くためのもの

私はこれまで、ペイフォワードカフェでもっとチケットを使ってもうにはどうしたらいいのだろうか?なぜチケットを使いづらいと思ってしまうのだろうか?と考え続けてきました。でもここにきて、チケットを使うかどうかは実は大きな問題ではないような気がしてきたのです。もちろん、チケットはどんどん使ってほしいと思っています。でも、ペイフォワードチケットが、もっと人々が自分自身が生きていること、生かされていることへの感謝の気持ちを感じられるきっかけとなったらどうでしょう?

チケットを目の前にした時「私なんかが使っていいのだろうか、申し訳ない」と感じてチケットを使わないとしたら、それは自分自身の存在をないがしろにしているように思われます。しかし、「使わない」という結果が同じだとしても「私はどこかのだれかのお陰様で生きているので『すでに受け取っています』」と感じるのでは違いがあるでしょう。

自分が自分らしくいられるために
チケットを使うことも自由
チケットを使わないことも自由
チケットを贈ることも自由
チケットを贈らないことも自由

それ以上に、自分が自分の存在に感謝し、自分を支えてくれている存在にも感謝することのきっかけを、ペイ・フォワードという仕組みの中に感じ取ってみてください。そうしたら、今日も満たされた一日になることでしょう。



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