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12月は寄付月間!キフカッション初体験 ペイフォワード記事Vol.8

寄付月間の12月 寄付について考えよう

Giving December!

直訳すると、「与える 12月」。なんのこと?実は12月は寄付月間と呼ばれています。12月はキリスト教徒にとってイエス様が降臨した聖なる月。そこで、寄付に対してより興味が高まる時期でもあります。
その時期を「寄付月間 ~Giving December~」として活動されている団体さんがいらっしゃいます。

キャッチフレーズは「欲しい未来へ、寄付を贈ろう。」日頃ペイフォワードや恩送りについて考えているので、寄付にも興味があります。

「キフカッション」に初参加

昨日、「せんだいみやぎソーシャルハブさん」の企画「寄付月間にキフカッションをやってみよう!」にオンライン参加しました。

寄付と言われてどんなことを想像しますか?もしくはこれまで経験したことがありますか?
●赤い羽根、緑の羽根、黄色、白、はたまた黒い羽根まで!(これは本当です。)
●街頭募金
●震災の時に義援金
●クラウドファンディング・・・

もしかしてぱっと思いつくのはこれくらいかもしれませんが、実は日本には歴史をさかのぼると、それはそれはたくさんの寄付行為の種類があったことを教えていただきました。
お寺や仏像を建てるのに寄付行為があったりとか、仲間を募って組合を作り毎月一定額を集めてまとまった額を順番に受け取ることができる仕組みとか、町の橋が壊れたとあらばお金を出し合って直すとか。

それまで私は、なぜ日本人は寄付という徳の高い行為に慣れ親しんでいないのかと、少し悲しくなっていた気持ちがあったのです。でもこういう日本の相互扶助的な精神と行為があったことを聞いて「なんだ、こんなに寄付が浸透していたんではないですか!」と日本人の精神を見直すことができました。

長年の謎が解けた!

キフカッションで寄付の歴史について教えていただく中で、長年の大きな謎が解けました!

それは「日本人は寄付に馴染みがないけれどどうして?」という疑問です。皆さんはこの疑問を持ったことはありませんか?それを象徴しているのがこの募金あるあるではないでしょうか?↓

学生時代、学校の机ごとに係の人が集めに来た緑の羽根募金、ありませんでしたか?強制されたら募金の精神ではないのに、かといってそうでもしないとほとんど集まらない。

それもそうですよね、寄付について学ぶ機会なんて、大人になるまで(大人になっても?)ほとんどないんですから。そこで寄付についてもっと身近に感じてもらおうということで設けられたのが、「寄付について語らう場、キフカッション」なんですね。

歴史的な側面でいえば、高度経済成長期に、それまで社会事業と言われてきた福祉事業などが国民の寄付で賄われるのではなく、国家の事業として整備されるようになったため、国民が社会福祉事業にお金を出す機会がなくなったというのです。

ということで、のりぱぁもびっくりの謎の答えはこちら。

日本人が寄付に馴染みがないのは、生活の中に寄付の機会がないから。
そして、寄付ということに対して知ったり語ったりする場がないから。

こういう理由があったとは。
謎が解けたと同時に、また次の謎が湧き上がりました。
「生活の中に寄付の機会っをもつためにはどうしたらいいの?」
「寄付について知ったり語ったりする機会を持つにはどうすればいいの?」
これについて考えてみたいと思います。

生活の中の寄付の機会

生活の中で「寄付」というと、コンビニやスーパーに置いてある募金箱が思い浮かびます。そう、「寄付」=「お金をさしだすこと」と思いますよね。「募金」であればそうかもしれませんが、「寄付」というのは必ずしも「お金」のことを意味しているのではないのです。「寄付」=「おとなりさんへのおもいやりの行動」と発想を変えるだけで、生活にもっともっと寄付の機会が増えていきます。その発想の転換の助けになる、「喜捨」や「布施」という言葉についてみてみましょう。

喜んで捨てる??

仏教やイスラム教の中で「喜捨」という言葉があります。これは「きしゃ」と読み、「喜んで捨てる」ということなんです。喜んで捨てるってどういうこと?これについて説明されているラジオ動画をシェアしますね。(前半の5分で説明されています。)

人に言われた心無い言葉や心に張りついて取れない「こだわり」。また、せっかく得たものを手放したくないという執着心は、ときに自分自身を苦しめることになります。
執着することをやめて、すべてから解放される。喜んで捨てることで自由を獲得するのです。

https://jocr.jp/raditopi/2020/11/13/177129/
※ラジオ関西『ラピスモーニング』10月25日放送回より

私たちは神社でお賽銭としてお金を投げ入れているようですが、実は執着を捨てている、ということなんですね。そして、生まれた時にも何も持たず、去る時にも何も持っていけないのなら、「何もなくても本来の姿に戻るだけ」。執着を捨てることで必要な物はきちんと手元に残る(または改めて入ってくる)、これを実感している方は多いと思います。

三種類の「布施」

さて、似た言葉に「お布施」という言葉があります。これについても調べてみました。「布施」には次の3種類があるということです。

http://www.hokkeshu.jp/houwa/031.html

「財施(ざいせ)」貪(むさぼ)る心とか、欲しいと思う心、恩にきせる心を離れて、お金や衣食などの物資を必要とする人に与えること。

「法施(ほうせ)」教えを説いてきかせると云った、相手の心に安らぎを与えること、精神面でつくすこと。

「無畏施(むいせ)」恐怖や不安、脅(おび)え慄(おのの)きなどを取り除いて、安心させること。

法華宗 真門流HPより
http://www.hokkeshu.jp/houwa/031.html
2022年12月16日現在

なるほど、そう考えると、お金以外に他の人のために役立つことはあるんですね。寄付=募金と考えていたとき以上に、普段の生活の中で誰かの役に立つことができる、という大きな視点から物事を捉えられるようになった気がします。

なにがなくてもできる7つのおもいやりの行動

では、今の自分にお金や人に教えるようなことや、傷をいやしてあげられるような方法がないと感じたとしたら?そこにまた、「七施」という考えがあるそうです。次のようなことなら心の持ちようで毎日実践できますね。

一、眼施(慈眼施)
慈(いつく)しみの眼(まなこ)、優しい目つきですべてに接すること。

二、和顔施(和顔悦色施)(わがんえつしきせ)
いつも和やかに、おだやかな顔つきをもって人に対すること。

三、愛語施(言辞施)
ものやさしい言葉を使うこと。しかし叱るときは厳しく、愛情こもった厳しさが必要である。思いやりのこもった態度と言葉を使うこと。

四、身施(捨身施)
自分の体で奉仕すること。模範的な行動を、身をもって実践すること。人のいやがる仕事でもよろこんで、気持ちよく実行すること。

五、心施(心慮施)(しんりょせ)自分以外のものの為に心を配り、心底から、共に喜んであげられる、ともに悲しむことが出来る、他人が受けた心のキズを、自分のキズのいたみとして感じとれるようになることである。

六、壮座施(そうざせ)
わかり易く云えば、座席を譲(ゆず)ること。疲れていても、電車の中ではよろこんで席を譲ってあげること。さらには、自分のライバルの為にさえも、自分の地位をゆずっても悔いないでいられること等。

七、房舎施(ぼうしゃせ)
雨や風をしのぐ所を与えること。たとえば、突然の雨にあった時、自分がズブ濡れになりながらも、相手に雨のかからないようにしてやること、思いやりの心を持ってすべての行動をすること。

法華宗 真門流HPより
http://www.hokkeshu.jp/houwa/031.html
2022年12月16日現在


この教えの中でもっとも重要だと思ったのがこちらです。

他のものの為につくしても、役立つことが出来たとすらも考えようとしないのが、本当の意味で布施ということになるのです。

法華宗 真門流HPより
http://www.hokkeshu.jp/houwa/031.html
2022年12月16日現在

以前のペイフォワード記事Vol.6でも、寄付に対して、それをもらってくれる人がどう使ってくれるかは妄想で楽しんで、期待しないということがポイントかな、という話になりました。そうしないと、自分の思った通りにならない時にイライラしたりすることになるからです。上の教えのように、役に立つことができたかどうかは相手が判断するものなので、役に立ったと自己満足はしないということがひとつ重要なことのように思えます。

次回は「寄付について語り合う機会をもつにはどうしたらいいの?」という二つ目の疑問をテーマに記事を書きたいと思います。







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