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《ドMの晩酌:第一夜》 心拍数マックスの人生

長男からのツッコミ


私は現在、45歳の会社員、10歳と8歳の息子を育てているシングルマザーだ。

5年ほど前のある日、息子たちがミニカーで遊んでいる姿を横目に、茶碗を洗っていた時のこと。

長男がミニカーを床に走らせながら私のほうを見てニコリと微笑んだ。
それが実際にあった出来事だ。

しかし私には、長男が微笑みながら「お母さんってさー、パッと見ちゃんとしてそうだけど、全然自分の人生生きてないよねー」と私を嘲笑ったように見えた。

私にとって、死んでも人にバレたくないと思っていたポイントを、いとも簡単に見抜かれた気がして(実際には、こんなことは起こっていない)、恥ずかし過ぎてダッシュでいなくなりたい気持ちだった(もう一度言うが、実際にはこんなことは起こっていない)。

長男に突っ込まれた(ように感じた)のは、休日の真昼間。息子たちを寝かしつけた後の晩酌を心待ちにしていたことは事実だが、この日は決してフライングはしていない。

つまり、酔っていないのは当然のこと、よからぬクスリに手を出していたわけでいのに、こんな幻覚を見るだなんて、大丈夫か、私。

そして、この日を境に、この「パッと見ちゃんとしてそうだけど、全然自分の人生を生きていない自分」について、見て見ぬ振りをして生きていくことができなくなってしまった。

それほどもまでに、長男から指摘された(されていない)のコトバの威力は半端なかったのである。

いずれ触れることになるが、かつての私は、娘として、友達として、後輩として、先輩として、従業員として、彼女として、妻として、母として、常にその役を完璧に全うすることに力を注いで生きてきた。

自分の本当の気持ちを決して相手に悟られないように、心拍数マックスで生きてきた。

私はどこぞの国のスパイか。 


そして、これもいずれ触れることになるが、私の人生は大変波乱万丈だったと感じている。次から次へとやってくる荒波に対して、健気に乗り越えて生きてきたと本気で思っていた。

しかし、どうだろう。長男の一件があったことを境に、自分を知る旅に出た今となっては、ただただ過去の自分について「どうかしてる!」という感想しか持てない。

それどころか、面白すぎて腹が痛い。

私は、なぜあれほどまでに心拍数マックス状態で頑張っていたのか。

過去の自分と、今の自分の捉え方のギャップがあまりにも面白すぎるため、本来フルパワーで避けてきた「恥」を承知でそれらのことについて少しずつ書いてみることにした。


ドMの晩酌

私は息子たちが寝た後の晩酌タイムを、何よりも心のよりどころにしている。

ドMの晩酌と言っても、それは決して、厳選されたお酒やつまみを購入して家計が逼迫しているとか、「飲みたいよー」と思いながら、ストイックにちょっとしか飲まない、とか、そんな行為を指しているわけでは全くない。 

飲むのは常にアサヒスタイルフリー350ml。毎晩それを3缶。
つまみは、シラスや明太子といった、少量で塩分が感じられるものを一品、チビチビと食べる程度。

ただ、ぬるくて気が抜けたビールほど許せないものはなく、最低でも二日前から冷蔵庫に入れておく。

そして私は、「ビールは泡が命!」という持論を持つ人とは真逆の考えを持っている。あれ(泡)は私にとって生涯不要の代物で、注ぐ時に気が抜ける(かもしれない)し、一口目のシュワシュワに泡をかき分けないと出会えないだなんて、迷惑でしかないと思っている。

ということで、キンッキンに冷えた缶をそのまま専用のマグにスポッとはめ、最後までキンッキンかつ喉が炭酸でピリリといじめられる状態を目指している。

そして、この3缶たちを空腹状態で迎え入れるのが礼儀だと思っていて、朝食は普通に、昼食は大盛りを食べ、夜の食事は一切とらない。

これは「お腹いっぱいだとスイスイ飲めないじゃん」というだけのことであって、決して空腹を我慢しているわけではない。

では、私の晩酌の一体どこに「ドM」の要素があるのか。

それは、毎晩、真剣に過去の自分を思い出し、その恥ずかしさに悶絶することを自分に課している点である。録りためたテレビ番組や映画を見るとか、読書やネットサーフィンするなど、そんなリラックスした時間の過ごし方は決してしない。

自分の過去のどうかしてるっぷりを細部まで思い出し、当時の自分と、だいぶ歳を重ねた自分との見解のギャップを、頑張って直視するのである。

あまりの恥ずかしさに座っていられなくなり、リビングを行ったり来たりする。

時には「ちょっとヤバイよ!」などと独り言を言うこともあるし、当時の自分が乗り移り、必死に言い訳をしていることもある。

寝ている息子たちが起きてきたら、彼らの知らない母親の姿を目の当たりにし、トラウマになってしまっても不思議じゃない。

私を表現する最高の言葉

こんな二重人格な晩酌を繰り返していて、気づいたことがある。

それは「波乱万丈な人生」の多くは、自らが選んだものであり、それに「健気に」対応していただけだったということ。

イバラの道を見つけては、そこに行かなくていいのに、「これしか道がないから」と、全力で突進し勝手に血まみれになっている。

もしかすると、それを「おいしい」とさえ思っていたフシがある。

心底恥ずかしいし、心底コワイ。

もし過去にタイムスリップできるなら、おもいっきり自分の肩を叩いてこう言いたい。「ちょっとアンタ、大丈夫?」と。


時を同じくして。ある知人から「ノリコさんってドMだね〜」と言われたことがあった。言われた直後は、昔の自分の健気さを言い表した、いわば同情的な言葉だと捉えていたが、この、あえて大変さを見つけては、無意識にヨダレを垂らしながら突進していった自分に気づいた今、これほどまでに自分のことを端的に表す言葉があるだろうか!と、えらく感動してしまった。


そう、私は、無意識ながらも、好んで「ドM」な人生を歩んできだけだったのだ。

(イラスト:まつばら あや)


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