大切な人が、いなくなるということ。
大切な人が、もうすぐこの世からいなくなるかもしれない、という痛みについて少し、ただ時間を一緒に過ごしながらしんみりと聞いた夜。
気持ちがほんのりでもあたたまるような言葉も持ち合わせていなければ、そもそも痛みをわかちあう術すらもわからない自分に縮こまりながら、
それでも私自身が家族をいろんな形で見送り、亡くしてきた時につくづくと思ったのは、
大切に想い、折にふれ話したり、思い出したり、いつも心の片隅にある人には、いなくなるという概念はないんだ、そこに存在し続けてる、ということ。
大切に思い出す自分が存在し続けるかぎり、それはもう鮮やかに。
もうひとつは、心が千切れるほど悲しい別れがあったなら、それはそれだけ、一緒にいた時間がとてつもなく幸せだった裏返しなんだ、ということ。
まったく上手く伝えられなかったけど、私にとってはこの二つのことが、すごく自分を拾い上げてくれた気がします。
そしてできれば、自分のことをもし最期にどこかで思い出してもらえるとしたら、
その時の自分は大切だと心の声が届くほどの笑顔だったら、あるいはその直接的な言葉そのものだったらいいなと、祈るように願うようにもなりました。
かの時に言ひそびれたる 大切の言葉は今も 胸にのこれど
啄木のこれは恋歌だけど、恋にかぎらず、大切な想いを言いそびれる、笑顔をむけそびれることがない時間を、ただただ一緒に過ごせたら、
人が生きるという時間はその繰り返しなんじゃないか、そんな言葉が浮かんでは消えて、ただ笑ってそばにいることしか出来なかったのだけれど。
時間が別れをもってくる一方で、哀しみ痛みを癒す味方になるのも、時間なんですよね。
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