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「フランス料理」と「ラーメン」の話

【時代は変わるから】
コロナもそうだが、結局、あらゆるものが変わっていく。時間の経過とともに。いままで大丈夫と思っていたものが、大丈夫ではなくなり、今まで「こんなもの」と思っていたものが大きな力になっていく。そういうものを目の当たりにいくつも見ていると、それが自分の身に起きた時のことを考える。年齢とは関係なく、この社会で生きていくには、自分が変わっていく事が必要なのであって、社会を自分にあわせて進歩を思いとどまらせることなんてできない。それが実感だ。だから「いつでも状況に応じて劇的に変われる自分」こそが人間としての根本的な財産だ」と、いつも思うのだ。

【過去はなくなる】
それがどんなに自分に不快な現実であろうと、変わっていくものを留めることはできない。であれば、その現実に合わせて自分を変えていくしか、生きる道は無い。それは頭ではわかっていても、いざその現実を目の前にすると、自分が変われない、ということがある。そういう人を見ているから「自分はああならないためにはどうするか」を常に考えている自分がいる。思えば、インターネットを日本に持ってくるときは、自分も含めた仲間が変化の最初を作った。結果として、インターネットはこの社会に大きな影響を与えたが、インターネットだけではない、大きな変化を作った人たちが他にもたくさんいる。変化は人が生きている証でもある。

【ITも変わっている】
ITというか、コンピュータの世界に限っての話だが、20年以上前はコンピュータというと、大型のコンピュータ(いわゆるメインフレーム)が主流で、一台数億円のマシンをみんなで共有して使った。JRの「緑の窓口」も大型コンピュータの世界で稼働した。1965年だ。当時は大変なお金がかかったシステムだったのだが、当時の「国鉄」はその資金力にものを言わせて作り上げた。いま問題になっているみずほ銀行のトラブル。そのもととなった銀行のオンラインシステムは、一般向けにはキャッシュディスペンサー(現金自動支払い機 - 現在はATMって言いますね)として、1969年に英国で始まった。これも銀行のような大きな資金力を持っている企業でしかできないことだった。

【電子技術の新たな時代の変化はここから始まった】
しかし、電子回路の高集積化技術でできた「ICチップのみの小さなコンピュータ(マイクロ・コンピュータ)」を作ったところから歴史が変わりはじめた。極小の量産できる安価なコンピュータは、あらゆる機器に組み込まれ、全ての機器が「コンピュータ内蔵」になった。冷蔵庫も、炊飯器も、居間の掛け時計も。。。。今は電子機器でコンピュータ内蔵ではない機器を探すほうが苦労するくらいだ。そして、「安価で小さい」ながらも、有り余る計算スピードと記憶容量を持ったICチップのコンピュータでパーソナルコンピュータができた。今は、同じものを、一度の多量のデータを扱う「サーバー」として使うほど、安価でありながら能力も高くなった。

【「フランス料理」と「ラーメン」だった】
1980年代だったと思うが、当時はまだ高額で豪華な大型コンピュータが全盛たったとき、ぼくらはマイクロコンピュータの世界で仕事を始めた。そんなとき、ある大型コンピュータの技術者の方に「料理で例えれば、大型コンピュータはフランス料理、マイクロコンピュータはラーメン。どっちも美味しいけど、格はフランス料理のほうが上」と言われたのを思い出す。当時は「安価で小さなコンピュータ」は「おもちゃ」程度に思われていたのだ。実際、当時はそんな感じが「普通」ではあって、自分のしごとなんて、こんなもんだよなぁ、くらいに、むしろ自虐ネタでこの話をあちこちで話して回っていたこともあった。しかし、それから10年ほどで、ほぼ完全に「フランス料理」と「ラーメン」の立ち位置が逆転した。

「時代が変わった」のだ。

「コンピュータ業界」は「IT業界」になり、インターネットはインフラになって、インターネットが止まると、生活も仕事も止まる。インターネットにつながらないコンピュータはガラクタと同じになった。巨大銀行のシステムはクラウドを使うようになり、クラウドのサーバーは「パーソナルコンピュータ」の技術で作られている。

【時代を変える「原理」】
こういった「時代を変える原理」とは「お金」である。そう言って「行儀が悪い」と言うのであれば「経済性」と言い直したほうが聞こえはいいだろう。「経済性」とは「投入したお金に対して、得られるお金が大きいか小さいか」である。労働も「投入するお金」で換算し、気苦労なんて見えないものも「投入するお金」で換算する。その上で得られるお金を数えると、これがマイナスになるものは、どんどんなくなっていく。これがプラスになるものは、どんどん栄える。「水が高いところから低いところに流れるように」という表現があるが、まさにそういうことだ。これが人間の社会だ。なぜならば昔から「カネの切れ目が縁の切れ目」ということわざがあるように、人の社会とは、ごく近くにいる人の親しみで成り立つだけではなく、それより多くの部分を、実際に会ったこともない人との関係で出来ているから、会ったこともない人との関係は「お金」で構築されているからだ。いや、話が逆だ。「お金とは、人が見ず知らずの人とつながって社会を作るためのコミュニケーションの手段」なのであって、そこには「同じ金額には同じ価値がある」から、つながる事ができる、と、みなこの社会で生きる人は、いつの時代からかそれを信じている。

【日本が「豊かだった時代」から「普通の時代」へ】
日本の経済が衰退している、日本人の給与は韓国や中国の都市部に比べても下がっている、とよく言われるようになった。日本国内で売られているスマートフォンは日本のメーカー製はほとんどなく、日本のメーカー製でも中を開けると、他の国で作られたものであることが一目瞭然の中身だ。

日本が豊かだった時代には、100円を得るのに数万円のコストがかかっても許された場合もあった。しかし、いま、日本は「普通の国」になった。100円を得るのに100円以上のコストはかけられない。それを他人に強いることもできない。常にコストを考える人が社会を作らないと、社会が成り立たない。そういう時代に変わった。しかし、この「コスト意識」がまだ数十年前のままだと「原理」から言えば「なくなる運命にある」。会社などの人の集まりでは、一人ひとりがこういったコスト意識を持たないと、会社が赤字になり、やがて会社は消える。組織の一員である、ということは、自分自身の人件費も含めて「コスト意識」を持つことが求められている、ということだ。

「日本は普通の国になった」とは、おそらく、そういうことだ。

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