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「成功」の道の入り口に立つ?

【「こだわり」の多様化】
人ってのは、なにかへのこだわりを持って生きる、ってのは、けっこう、普通にあることで、自分もあるし、あなたもあるだろう。しかし、今の時代はその「こだわりを持つもの」が、人によって違っていることは当たり前になり、かつそれが多くのバリエーションを持つ様になった。ある「A」というもの(人とか、神とか、形の無いものでもここでは「もの」と言っているのだけれども)への「こだわり」は、集団で同じものを持つ、ってことが成り立たない時代になってきた、というように感じる。

【「こだわり」を作ったシステムが古くなった】
この「こだわり」を人間の集団として一定方向に向かせる、という「システム」も「システム」というノウハウとして認識されることが非常に多くなり、従来と同じ「システム」はその仕掛けが暴かれたために、役に立たないことも増えた。これは資本主義の発達によって「誰も知らなければ売れないもの」をなんとか売るための方策として、いろいろと考えが及んだ結果ではあろうけれども、特にインターネットという地域や人の集団の垣根を越えた交流から、そういう情報も広まった、ということも大きいのだろう。

【「隠すこと」が出来ない時代】
結局「隠すこと」が出来ない時代になった。「A」という情報は、多くの人に晒されて当たり前。その人がそこにいるから、そのポジションでしか見えないもの、というものも減った。隠すことはできないから、晒されるものがあるからこそ「知の格差」はますます広がった。

【目の前にあるのにわからない】
誰でも容易にアクセスできる情報があっても、それがなにを意味するか?それが将来どういう意味を持つものになるのか?それが「わかる」ためには、そして「それがわかる人たちの輪の中に入る」には、それまでの知識などの積み上げ、すなわち「知の訓練・研鑽」が必要になる。それは目に見えないから、見えない人にはますます見えなくなり、見える人には、それは宝の山に見える。「能力の差」はある。それは「知の訓練・研鑽」で育てる事ができる。「生まれつき」「育ち」というのは、この「知の訓練・研鑽」をする人たちが周りにいる、という環境のことだったり、それに適した性格だったりする、という程度のことだ。

【これからの時代には「知の訓練・研鑽」を】
自分の環境が「知の訓練・研鑽」に適していない、しかし、それが欲しい、と思ったら、自分自身が今どこにいるかを見極め、職場を変えるとか、行っている学校を変えるとか、住んでいる地域を変えるとか、そういうことが必要になる。まさに「孟母三遷」を自分でやる、ということだ。そして、それを自分自身でできる人が「人生の宝」を見つける道に乗る。そして、その道を辿る間に、また違うものも見えてくる。そこに人生の豊かさ、ってものがあるんじゃないか?などと思ったりしている。

【「成功」はゴールではない】
結局「成功」したとしても、その状態が長く続くわけではないのが人の世というものだし、シンデレラだって、王子と結婚した後に離婚したかも知れないし。それが現実というものであったりして。まさに「諸行無常」ではあって。とは言うものの、今いるところからもっと良いところに行きたい、というのは、誰でも、持つ願望ではあって。

Good Luck !

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