「能登」のメディアと行動
【レガシーメディアは過去の主役】
かつて、レガシーメディアであるテレビや新聞は「国(や地域)」という単位での「コンセンサス(同意)」を作るもので、ネットメディアは、それ以下の大きさの単位での「コンセンサス」を作るものだった。いや、そういう認識だった。
【「噂」の数値化と可視化】
ところが、ことここに至って、テレビなどの視聴率以上に多くの視聴者を集めるネットメディアに乗った人(インフルエンサー)や、その人の意見が多く世の中に出回ってくると、レガシーメディアも、その影響力は所詮はその一つ、という程度の大きさであることがわかってしまった。しかもネットメディア以上に制作と広報の仕組みにかかるコストがかかりすぎているので、やがてレガシーメディアは衰退の道を歩む以外にはない。「経済的に合わない」からだ。これはネット以前の社会からあった「噂」の数値化であり、可視化ということだ。
【政府も方針転換を余儀なくされた】
この能登半島の震災でも、政府とその広報を行うレガシーメディアは「素人は現地に行かないでお金を出せ」を言っていたが、結局政治的傾向の左右(政府寄りかそうでないか)を問わず、現地に実際に「行って援助してしまう」インフルエンサーが増加し、日本国民も「政府とマスコミの言うことなんか聞いちゃいない」状況が数値的に露になり、慌てて政府は首相の現地入りを表明せざるを得なくなった。
【ネットは止められないインフラ】
インターネットは今や水道やガスや電気のように止められないインフラとなっており、ネット以外のインフラの制御もインターネットを通して行われているので、ネット上の言論だけを止める、ということをするには、多大なその効果に見合わない支出を必要とするため、事実上、ネット言論だけを止めるというわけにはいかない。
【絶滅した恐竜のように】
東京から見ていると能登の震災は、震災そのものの起こした甚大な被害ももちろんだが多くのレガシーメディアの時代の最後を飾る自然が演出したイベントのようにも見える。能登に集まり、能登の現状を伝え、能登での救援活動の多くの部分で「ネット」が大きな影響力を行使し、レガシーメディアの補完ではなく、むしろネットはレガシーメディアを引っ張っていく存在になったのがわかる。そして、ネット言論とネットのインフルエンサーの行動のあと、レガシーメディアの動きがあり、それに引きずられて政府が動いた。そのようにしか、私には見えない。
今やレガシーメディアは、芸能くらいしか存在感はないのかもしれない。