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自分を許さないと救いの手を受け取れない

喉に小骨がひっかかっています。

昨日食べた小魚がですね・・じゃなくて、比喩です。
ひっかかっている小骨は、私が家族に返した言葉です。

会話の中で出てきたふとした悩み相談。できるだけ押し付けにならないように、「8割共感+2割はやんわりした解決策」で返したのですが、共感も解決策も本人に響いてない。ダーツの矢が的にも当たらず空を切っている感じなのです。

(うーん、やっぱり、この言葉じゃなかったのかもしれない)とモヤモヤ。そんなときに読んだ、岸田奈美さんのnote。

他人からの救いを受け入れられるかどうかは、自分だけが決める。(略)
自分が救われてもいいかどうかを決めるのは自分であって、他人ではない。他人に救われることがはあっても、その前に、自分を許すという果てしない作業からはじまる。

自分が自分を受け入れないと、救いの手って受け取れないんだな。
自分にも思い当たる節があるし、そして上述の家族の例も同じだったかもしれない、と思ったのです。助けてほしくも、共感されたくも、なかったのかもしれない。

じゃあ、放っておけばよいのか。岸田さんは、こう書いてます。

困っている人を見つけて、自分がなにかできると思ったら、できるだけ迷わず声をかける。
でも、期待をしない。自分が救いになるという高慢さを棄てる。救えるのは自分だけ。声をかけたいから、かけるのだ。いらないとはねのけられたり、疎遠になったりしても、がっかりしない。ましてや、怒らない。今はまだ、その時ではなく、その形ではないだけだ。

人を助けることで、自分を満たす感情を「メサイアコンプレックス」と言いますが、油断すると自分の中にもうずうずとメサコンが湧き出てきます。

求められてもないアドバイスをつい口走りたくなったり。声をかけても思った通りの反応がこないときに、ガッカリしたり。
仕事の時は気を張っているので、こういうことはないですが、家族とか友達とか気を抜いたときに無意識のうちに現れます。

「助ける」「助けられる」関係って何気ないことのようで、
各々の自己肯定感がとても大切になる行為です。

「それで、あなたは、どうしたいの?」と問う

助ける側が、メサコンにおぼれないために。
助けられる側が、負のループから抜け出るために。

有効な問いの一つは、「それで、どうしたいの?」なんだろうな、と思いました。

いろんなケースがあるので、どんなときにも使える万能ワード、ということではないですが、私は子どもにめちゃめちゃ多用してます(笑)

少なくとも、自分で自分に声をかけるときは、意識できるといいですよね。

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