見出し画像

鳥居と生活

 2週間の海外出張を終え帰国したある日、久しぶりに自分の車を運転して近所のココイチに行った帰り道で大通りから自宅に至る丁字路をうっかり通り過ぎてしまった。

(疲れているのかな)

 迂回して別の道から家に帰った翌日、目印にしていた大きな石造りの鳥居がなくなっていることに気が付いた。いつも渋滞している道路の拡張工事のために撤去されたようだ。

 それは不思議な鳥居だった。近所にある神社の参道の入り口として作られたたのだろうそれは、参道が住宅街の生活道になった後もポツンと残され、車に乗ったままくぐることができた。関東から九州にUターンしてきた7年前、おっかなびっくりはじめてこの鳥居をくぐった時は神社の中に迷い込んだような気分になった。住宅街に不自然にそびえ立つその鳥居は夜見るとちょっと怖くて夢に出てきたこともあった。以来毎日のようにその鳥居をくぐって生活をしてきた。次第に慣れて意識することはほとんどなくなったけれど、仕事がうまくいって意気揚々とくぐる帰り道や失敗をした憂鬱な帰り道にはこの鳥居をくぐると「家に帰ってきた」と思った。

 鳥居がなくなった側道はずいぶんすっきりしていて、工事が完了すれば難儀していた本線との合流もスムーズになるようだ。恩恵を受けるのは私自身でもあるわけで工事自体をどうこう言うつもりはまったくない。数年もすればここに鳥居があったことなんてほとんどの人が忘れてしまうのだろう。贔屓目に見ても役にたつものではなかったし生活者としてはないほうが便利だ。だけど、なんとなくなにか抜け落ちてしまったような感じがしてしまう。写真の一枚もないけれど自分だけはあの鳥居があったことを覚えていたいな、と思い思わずこんな文章を書いてしまった。

 対象それ自体に意味はなくても、対象と過ごした時間、生活が意味をもつことがある。当たり前にあったものが前触れもなくなくなることもある。そして少し新しくなった生活は続いていく。

境内の中には歩いてくぐる小さな鳥居が残されている


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?