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バイク考:生きていること、やっていること、苦でも楽でもそれそのものが楽しい。

友人に「みやここうじ」をプレゼントしたら、ハマったらしく甘酒仲間が増えたので、明日も一袋持って、甘酒好きな人にプレゼントしようと思う。

もう一つおすすめなのが、豆乳平気な人は、ガゼリ菌SP株と豆乳のヨーグルト。いろいろ試した結果、これがわたしは美味しい。
うちは深めのタッパーで作っていて、寒くなると、ひとまわり大きいタッパーにお湯をはって、豆乳がうまく固まるようお風呂に入れてあげる。
そうするとガゼリ菌がめっちゃ喜ぶ。それを見てるわたしも喜ぶ。

バイクは、遠くても近くても、土砂降りでもピーカンでも、乗っていること自体が楽しい。
最近、ネックウォーマーなるものを初めて買って、今までの寒さはなんだったんだ、というくらい暖かい。
ヘルメットはずっと半帽で、雨の日は顔面濡れっぱなし。
誰かかっこいいフルフェイスくれないかなと数年ほど思い続けている。

バイクに乗っているように生きていけばいいかなと思う。
生きていること、やっていること、苦でも楽でもそれそのものが楽しいと思えるのは、拾った残りの人生を生きていく上で見つけた、一番の宝かもしれない。

体というものが好きか、嫌いかは、動くことに取り組む上で、大きな違いになる。

人間とはいかに弱く醜く、有機的な管や組織や排泄物にまみれた体とはいかにグロテスクで、性とはいかに屈辱と不条理に満ちているものか。それをすべて「平凡な家庭」という仮面に覆い隠してきたうちの家族というものを、動くことに取り組みはじめてからずいぶんと恨めしく思ったものだけれど、バイクに例えたらかなりの遠回り、難コースってことで、光を当ててみれば、眼に映る風景は、あとはただおもしろいことだらけだ。

自らの動きを食べていく、努力そのものを味わっていくことは、土星的・サトゥルヌス的な働きだと先生から教えてもらった。

我が子を食らうサトゥルヌスは、ゴヤが有名だけど、ルーベンスも生々しい。
食う行為は、栄養摂取以前に、力や生命を奪い、我がものにする働きがある。食われる側は、食った側に入り込み、永遠に生きる。

自我を持ち、自己言及的、再帰的、ウロボロス的にしか生きられないわたしたちは、いつか、肉体を持ったまま、この土星の輪の外を知る時があるのだろうか。
いや、時の回廊の外に憧れる前に、自らのサトゥルヌス性を知るということは、鉱物界を知るということだ。わたしたち人間は未だ無意識に、「未来」という我が子を貪り食って、欲を満たしている恐ろしい存在だ。

何を食っているのかを知る。本当の意味で「食う」とは、鉱物界の内界に入ること。捧げられたあらゆるエネルギーを「今」という瞬間に置き、受け取りにいく。

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