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映画「TENƎꓕ」と時間の逆行についての考察メモ【ネタバレなし】

既に様々なところで映画の解説や、物理的背景の解説はあると思うが、一応個人的に思ったことをメモ。

様々な映画を作ってきたクリストファー・ノーランが、今この時代に投入する映画のテーマが時間の逆行というのは、なかなか時代性を得たものだなと思った。

というのは、ここ1、2年というもの、「時間」をテーマにした興味深い本が沢山売れているからだ。たとえば、カルロス・ロヴェッリ「時間は存在しない」(2019/8/29)、吉田 伸夫 「時間はどこから来て、なぜ流れるのか?」(2020/1/15)、ジュリアン・バーバー「なぜ時間は存在しないのか」(2020/1/25)、高水 裕一「時間は逆戻りするのか」(2020/7/16)、などなど。他にもたくさんあるが、なんだかんだ、ここに挙げてある本は気付いたら全部買って読んでいた(笑)。

これらの本のなかでも、突出したインパクトを放っているのは、やはりロヴェッリの「時間は存在しない」という主張。これは私の拙い理解でざっくり言えば、ロヴェッリ等が研究するループ重力理論(超弦理論と並び、重力理論と量子論を統合すると期待されている量子重力理論の候補の一つ)によれば、時間の向きの区別がないどころか時間と空間の区別も曖昧となり、時間とはミクロにみて本質的に存在する必要がないという仮説が成り立つ。

そこからの飛躍で、マクロ現象においては描像が「ぼやける」ので、エネルギーが保存するように時間が一定の向き流れているように見える(逆にいうと、保存する量のことをエネルギーと呼んでいるとも言える)というもの。今手元に本がないので多分そんな感じ笑

つまり、私の理解では、時間とは真にマクロ現象で、認識主体として真にマクロな我々にとって切っても切れないが、ミクロで見れば究極時間は存在しないだろう、ということかなと思う。

実際、ミクロスケールではゆらぎにより熱力学第二法則がわずかに確率的に敗れる(つまり時間が逆行する)ことがわかっており、タイムリーなことに2019年の実験では量子コンピューターで微小領域で時間の逆転現象(のようなもの)の実現にも成功している。この辺り、「エントロピー信者」の方々にもぜひ知ってほしい。

だだし、再三述べているように、これはあくまでミクロな系で起きうる話(しかも意図的ではなく確率的にしか起きない)であり、マクロ系では∝exp(-N)(N:粒子数のスケール)のファクターで確率にきいてくるので、宇宙の年齢程度の「わずかな時間」では事実上起き得ない。

しかし、こうした研究事例があると、ついサイエンスフィクションとして「時間が逆行したら」というシナリオをリアリティを持って描くとしたらどんなやり方があるだろうと考えてしまう。そうして生まれたのがこの映画だと思うと、なかなか時代を得た作品だなと思うのである。

映画「TENƎꓕ」では、(当然ながら)詳しい時間逆行の方法には触れられていないが、反物質(反粒子)への言及があることから、ミクロにおける確率的な時間の逆行現象ではなく、ファインマン・ダイアグラムなどで描かれる反粒子の逆行時間表現にヒントを得ていることがわかる。また、対消滅の危険にも「一応」触れている。そこから、極めて単純に考えると、回転ドア(ターンスタイル)を通過した物質は、反物質に変換されることが想像されるが、そうなると出た瞬間に空気分子や地面と触れて対消滅してしまいそうだ。

いや、そこは巡行世界の自分と触れさえしなければ対消滅しないという設定であるとして、百歩も10^23歩も譲ろう。映画における、酸素マスクが必要という設定は、なるほど巡行世界の空気分子を吸っても肺で酸素の交換はできないだろうから、逆行作用された「反空気」を持っていかなければ呼吸はできないということか。良く考えられている。

しかし、そこまで譲ったとして、それでも不思議に思われるのは、逆行世界で自由に車に乗っていることだ。恐らく、時間を逆行しながら内燃機関を燃やすのは不可能だろう。それならば、その自動車も回転ドアで逆行化させて、さらにエンジンに「反空気」を送り込むボンベを人間と同じようにつけねばならない。その様な大型の回転ドアは描かれていなかったが、きっとあの車のトランクには「反空気」の入ったボンベが積まれていたことだろう。

追記

最も時代性を帯びていたのは、ぺこぱでした



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