怒りと冷静の狭間で、僕は他人を理解したい

自分の怒りはどこにいってしまったのだろうか、と感じることがある。

トラウマ的な体験やパワハラ、セクハラ、バッシングなどSNSをみていると被害を受けて怒りの声をあげている人たちがいる。最近、毎日のように見る。怒りは当然だ。理不尽な想いをして生きるのがつらくなったり、今までの生活とは切り離されて非常にくるしい想いをすることになる。数年間かけてその苦しい状況から抜けれるかもしれないが、その数年が本人にとっては地獄のような日々になるかもしれない。カーテンを閉めて誰とも会いたくない日々も続くかもしれない。有名になってしまった事件ではいつも「あのときのあの人だよね」と言われるかもしれない。ずっとそれが長年、付きまとい続けるのだ。

僕も事件当時の怒りというのは社会全体に向かった。腹が立つことばかりで「なぜメディアは虚偽の報道をし続けるのだろうか」「なぜ政府関係者から自己責任と切り捨てられなければいけないのだろうか」「なぜ見知らぬ人から罵声を浴び、殴られるのか」など怒りだらけだった。この社会を壊したいとさえイラク人質事件の後は思っていた。

しかし、怒りは長続きしなかった。当時のことを思うと、そのときは既に諦めに違い感情だったのかもしれない。「おれなんて放っておいてくれ」と社会に言いたかったのかもしれない。僕は対人恐怖症やひきこもりなど社会との関係性を数年間つくることになる。国民の半数近い人間から否定されて、社会に絶望していた時期が長かった。怒りから絶望に変わるのは短い時間だった。僕は運がよく大学時代の友人たちや家族など様々な人に見守られて社会復帰を5年後に果たすことになり、働いた後に今の認定NPO法人D×Pを起業することになる。

「ひとりひとりの若者が自分の未来に希望を持てる社会」をビジョンに掲げて8期目。事業を通してビジョンを実現していくために僕は仕事している。過去と今の事業はつながっているので、僕はイラク人質事件のことを大阪にきてから明るく笑いを含めて語れるようになったが、その反面、常に怒りの感情もある。「なんで、あのとき自己責任という人たちがいたのか」という感情がある。でも、一方の自分は「いや、ちゃうでしょ。あのときはメディアも政府も過熱気味の報道で誤報もあった。そりゃ僕のことを誤解する人もいるでしょ」という自分。どっちも自分であり、今は他人を許せることができる後者の感情が大半なのも自分である。

前者の「なんで、あのとき自己責任という人たちがいたのか」という怒りの感情の自分は事件後、奇妙な形で僕は行動に落とし込んだ。批判した人たち、批判の手紙を送ってきた人たちと対話し続けることだった。

今でも思うが、あまりこのときの行動が自分にとってよかったのかどうかはわからない。ただ、振り返って思うと僕はこの頃から「否定せずに、関わる」という関わり方を身につけてきたのかもしれない、と今は思っている。違う考えや間違った認識に基づく批判をしてくる人に対しても話を聞いて(僕は人間ができていないので、カッとなって言い返すこともあったのだが)対話を促していくことをしてきた、と。その結果、大半の人が、批判をしてきた人が僕の行動を理解してくれて味方になったり、考えを改めてくれることが多かった。また、同時に思ったのは当時、批判してきた人たちは何かしらの弱さを抱えてきた人たちが多かったという事実だ。家庭に居場所がない、仕事も不安定など、なかなか頼れる場所がないひとりひとりと僕は会ってきた。

僕が現在よく接する10代の子たちの中には髪色が金髪で「お前ら誰?」的な態度を取る子もいたりする。不登校を経験している子で見るからに人と関わりたくないオーラを発している子もいる。それでも彼らのことを知りたい、彼らと何か接点を見つけて打ち解け、ちゃんと対話したいと思うのはこのときの経験が大きいように思う。批判している人も含めて、彼らのことを知りたいという強い気持ちが出てきて、僕はずっとそこに自分の軸を置いてきたように思う。自分の異世界の住人たちの感情や怒りと僕の怒りの狭間に対話があって、コミュニケーションがあって結果的にはお互いの理解を見つけることができたのかも、と。

日々、社会には怒りが満ち溢れている。その怒りはあって当然なことがきっとある。怒りが社会を変えることも多々あるし、それは否定できない。きっと怒りの感情の発露自体は社会の変革を促すものでもあるだろう。でも、僕としては怒りだけの感情だけで動きたくない。意見が合わない相手だとしても直接会って話をしてみたい。罵詈雑言を受けたとしても、その人の生まれ生い立ちや生きてきた環境など話を聞いてみたい。分断と呼ばれる社会の中で、僕たちは怒りと冷静さの狭間で、相手のことを理解できるようになるのだろうか。ボーダーレスな社会になっても、人との間には境界線がたくさんあって、人の見る世界は狭まっていく。ボーダーレスが社会を狭める結果になった社会の中で泥臭く、僕は人間と人間との対話ができるような社会、つながりがある社会が希望を持てる社会になっていくんじゃないかと思う。

これからも仲間と共に模索していきたい。


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