お笑い賞レースで国民審査を行うべきではないと思う理由

 お笑いの評価、ネタの評価は各人の主観に委ねられる。自分の意見と他人の意見とが、お笑いほど割れやすい娯楽も珍しい。こちらがよかったと高く評価した芸人について、周囲から「えー? 面白くないじゃん」と異を唱えられることはよくある話だ。自分と異なる意見に耳を傾ける余裕というか、度量や寛容性がお笑いと向き合う上で必要になる。

 一方で、その分だけ、見る目が問われることになる。答えは直ぐ出るわけではない。1年後の場合もあれば5年後の場合もある。10年後の場合もある。後にその芸人がブレイクしたとしても「それ見たことか」と、他者に胸を張ることはできない。その件についてこだわってきた人以外は、まず忘れてしまっているからだ。間違いには気づきにくいものである。

 前回のnoteで僕は、2018年のM-1グランプリ敗者復活戦で、惜しくも次点に泣いたプラス・マイナスの不遇を嘆いた記事を書いた。なぜその時、お笑いファンの多くは彼らを支持しなかったのかと、国民が行ったその審査に疑問を抱いたわけだ。だが、それと同じくらい、あるいはそれ以上に筆者が苦言を呈したくなったのは、このルールを作った側になる。芸人の人生を左右する大事な投票権を、なぜ一般の人(視聴者)に与えたのか。準決勝からファイナリストを決めるときのように、作家や専門家などの“プロ”が選ぶべきではなかったのかと、その「視聴者投票」という決定方法に首を傾げたくなった。

 視聴者は評論家ではない。“お笑い”を職業にしているわけではない。そうした、こだわりの低い人たちに投票権を与えれば、長いものに巻かれろ的になりがちだ。メディアへの露出が高い人気芸人が、総花的に選ばれる可能性は増す。プラス・マイナスではなく、ミキが選ばれてしまった大きな理由になる。

 視聴者投票による“違和感”を覚えた例は、この他にもたくさんある。最近で言えば、昨年のM-1グランプリ敗者復活戦での、ぺこぱに対する評価になる。2019年のM-1で見事3位に輝いたことにより、昨年大ブレイクを果たしたぺこぱ。そうした中、2年連続で決勝進出を目指した昨年のM-1では、準決勝で敗退。その結果、敗者復活戦へ回ることになった。だが、その敗者復活戦で披露したネタの出来映えは、こう言ってはなんだが、お世辞にも良いとは言えなかった。前年の成績が嘘のように沈黙した。そんなぺこぱが復活候補の上位3組に残ったと発表された時、エッと一瞬、筆者は目を疑った。そんなわけがない、と。

ここから先は

2,508字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?