BOØWYとクリスマスイブ

1987年12月24日。BOØWYが解散した。6枚目のアルバム『PSYCHOPATH』を引っさげた『ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR』のツアーファイナルとなった、渋谷公会堂(現:LINE CUBE SHIBUYA)。そのステージのラストには、『解散』という明確なワードは口にしていないにせよ、集まったファンへ涙ぐみながら意思を伝える氷室京介の姿があった。これは、映像作品にもしっかり収められている。

翌年に東京ドームで2日間開催した『LAST GIGS』をもって解散とも言えるかもしれない。だが、SNSどころかインターネットも普及していなかった当時、翌日の12月25日の朝刊には紛れもなく「解散」と書かれていたそうだ。

そんな経歴から、彼らを愛してやまない私にとって12月24日というのは、何とも不思議な気持ちで過ごす一日なのだ。BOØWYがいなくなってしまった日。こう書くととても寂しさ溢れる姿で毎年過ごしているように思えるかもしれないが、何せ35年前である。生まれてすらいない私は、その日の雰囲気がどうだったのか、予想と妄想が入り混じった頭で、アルバムか映像ソフトに食い入るよう耳を傾けるのが毎年の恒例行事である。

BOØWYを聴き始めてから今年で10年目、つまり10回目のクリスマスイブ。何となくで始めたnoteに、このライブへの気持ちを記してみようと思う。リアルタイムで体感していない、作品で後追いしかできないにわかの思いを書き連ねてみる。

『1224』の異質な雰囲気

このライブが他と異なる雰囲気を醸し出していることは、無知な自分でもすぐに分かった。中古で既発のVHSを買いあさり、実家のビデオデッキで片っ端からライブを見漁った時は楽しかった。『LAST GIGS』は字面そのままに捉えて最後に見ると決め、『“GIGS” CASE OF BOØWY』や『BOØWY VIDEO』、『ROCK'N'ROLL CIRCUS TOUR』を夢中になって再生した。聴き始めたばかりの私でも繰り返し聴いていた楽曲が多く並んでいて、スタジオ音源以上の迫力に衝撃を受けたことを鮮明に覚えている。まだ聴いたことがない楽曲ももちろんあった。しかし生き生きとパフォーマンスを繰り広げるメンバー、それに比例するようにヒートアップする観客たちを見ては、CDを探し、改めてライブ映像を見るというように往復していた。既知の楽曲か否かなど、関係なかった。それほど彼らから放たれる音に夢中だった。

まだ見ていないのは『1224』と『LAST GIGS』だけ。シンプルなパッケージがかえって目立っていたその『1224』は何となく避けていたのだが、残ったのが2本となった今は選択の余地がない。

再生。SEからもう重苦しい。ベストアルバムばかり聴き、スタジオアルバムは中途半端にしか揃えていなかった私は、『PSYCHOPATH』から滲み出るあのテイストを知らなかった。言うまでもなくBOØWYのロック色があるのに、悲壮感ともまた違う、他にはない寂しさがあるあのテイスト。だから、『LIAR GIRL』のイントロと共に出てきた4人、セット、客席。それらを目の当たりにした瞬間、「解散するの、このライブかも。」と、ファン駆け出しのにわかながら予感できたのだ。

野暮でも考えてしまう『最高傑作』

セットリストを1曲ずつ述べることはさすがに厳しい。どれか1曲について述べよう、これは悩むぞと頭を抱えるかに思えたがすんなり決まった。『MEMORY』だ。

BOØWYのライブ映像による演奏を聴いて、「スタジオ音源以上の迫力に衝撃を受けた」と上で述べた。迫力と呼ぶと、単純に音の厚みや骨太さの話になってしまう。この『MEMORY』は決して『DREAMIN'』や『B・BLUE』のようなアッパーチューンではなく、BOØWYの中では落ち着いた曲調に分類される。しかしながら、私は衝撃を受けるだけでなく、圧倒された。激しさや疾走感のある楽曲ばかり触れてきた私にとって、こういった楽曲が深く刺さるというのは初めての経験だった。

このライブにまつわる背景と楽曲の持ち味が合わさった演奏を聴いて、俗な表現だが、神がかってるとしか思えない。年に一度だけ聴き返すが、鳥肌が立ちながら聴き入ってしまう。渋谷公会堂に集まったファンからの溢れんばかりのアンコール。それに氷室京介が一言お礼を告げ、ゆっくり暗転。布袋寅泰の優しくもせつないアルペジオが会場に轟く。高橋まことのドラムと共に松井恒松のベースも加わり、イントロの雰囲気は力強いフレーズに様変わりする。ここに氷室京介の歌声が乗っかってくるのだから、改めて異常なほどエネルギーを持ったバンドだと思えてしまう。

1コーラスを終えた途中、後ろを向く氷室京介は何を思っていたのだろう。あの時も、4人で考えたこの先のことをファンへどう伝えるか、考えていたのだろうか。それは本人しか分からないことだ。確かめようがない。だが一年に一度しか見ないとしても、あの観客席に背を向ける姿が頭から離れることはない。
この目でみて頭から離れないのはその氷室京介の姿。それとは別に耳で聴いて頭から離れないのは、ラストサビ後のアウトロにおこる布袋寅泰のギターソロだ。比べる必要性など存在しないが、これを超えるギターソロを私は知らない。ギターについて詳しくはないが、「泣きのギター」というのは、こういうことを言うのだろうか。こうもメロディアスで胸に訴えかけるようなギターがあるのものかと、毎年唸ってしまう。
氷室京介の姿。布袋寅泰のギター。松井恒松と高橋まことの表情。これらがこんな淡く彩られたのは、この『1224』が『そういうライブ』になってしまったからだと思う。だからこの『MEMORY』は、かつてないほどドラマチックに仕上がっているのだと思う。

もちろん、『MEMORY』が元から持っている魅力も非常に大きいと思うし、メンバーからも思い入れがありそうだ。氷室京介はソロキャリアにおいて、BOØWY楽曲を解禁した2004年のライブ、東日本大震災の復興支援の為、全曲BOØWY楽曲という構成で開催した2011年のライブでセットリストに取り入れている。

また布袋寅泰は当然といえば当然だが、看板とも言えるギターリフが特に目立つBOØWY楽曲を演奏する傾向があるため、バラードに近いようなタイプはあまり披露されない。だからこそ、2021年1月に行われたメモリアルライブで大きくアレンジを加えた『MEMORY』が聴けたことには、非常に驚いたし、とても嬉しかった。

終わりに

思った以上に書いてしまった。BOØWYについてどころか、自分自身が好んでいるものをここまで書き殴ったのは初めてかもしれない。余計なエピソードを打ち込んでは脱線していることに気づき、泣く泣く消してしまった思いもあるので、また語りたくなったら別な機会に書いてみようと思う。
35年越しの『1224』。10回目の『1224』。また気持ちを新たに観て、聴いてみようと思う。


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