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Freedom Opportunity Project(仮) NO.2

今回は私のプロフィールから現段階の目指していることまでを綴ります!

 骨董品屋を営んでいる、家庭に生まれる。幼少時代にはアメリカやカナダに行ったことがあった。その頃はホームアローンや天使にラブソングが流行っていて、幼いながらもアメリカでの生活や寛容な人柄に興味があった。小学校から高校まで野球部に所属。周りの環境にも恵まれており、それなりに楽しく過ごしていた。

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今も草野球を続けています!

 
 大学入学の時に人と接する仕事に就きたいと思い心理学部へ進学。カウンセラーか教員を志望。大学入学当初は教員になるなら英語の教員を志望していた。(5歳から英会話に通い当時はそれなりに会話はできていた、今は無理。笑 高校3年の時には親のスネをかじりオーストラリアに1人で1週間行かせてもらった。)

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 大学では教職を取りながら、学部の勉強をして、部活(ラクロス)にバイトと、決してワンダフルではないキャンパスライフを送っていた。
 そうこうして、大学2回の時に教職の先輩に教師になる上での相談をいろいろしていた。そんな時に先輩が作業所のボランティアをしているというのを聞いた。初耳で、何かわからなかったが好奇心だけの私は付いて行った。

 作業所とは障害のある方が、職場として通われているところで、内職的な作業をしているところであった。

 作業所というものを何か全く知らずに勢いだけで行った私は、自分の世界の狭さを知った。率直に「こういうところがあるんだ。」と当時の私は思った。そこではお酒のラベルをつくっていたり、ペットボトルの分別や牛乳パックを使った紙すきをしていた。そこでもお酒のラベルなどはこのようなところで作っているのだと知った。見たことのあるお酒のラベルも作られていた。また、職員も利用者さんの区別ではなく「仲間」とここでは全員のことを呼んでいます。私はそこでペットボトルのキャップと本体を仕分けをしている方と一緒に作業をすることになった。そこで働かれている方は非常に親しみやすく、会話も楽しく、何一つ濁りのない透き通った方たちで作られてる環境であった。そこでの一日はあっという間に終わった。

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 作業所での一日を終わり、玄関で靴を履き帰ろうとした時に私の面倒を見てくださっていた所長さんから「一つだけ言うことは、言葉遣いに気をつけましょう。仲間は親しみやすく、幼いように感じることがあるかもしれないですが、年上で人権を尊重する意味でも適切な言葉を使っていくと、よりいいですね。」と言っていただいた。その時に我に戻った。一緒に作業していた仲間はペットボトルのキャップを外すと少し離れたところにかごを置き、投げていた。入ると非常に喜び、私もそれに合わせて称賛していた。しかしその時に知らず知らずの間に「すごい!もっかい!」などと、年上の方に対してなめた口をきかせていた。自分に根本的に欠けている部分であると痛感した。その時の言葉は今も鮮明に記憶に残っており、今でも胸が痛む。

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 それからまた先輩に他にも特別支援学校にボランティアに行っている。というのを聞く。それもまた初めて耳にする言葉であった。

特別支援学校とは、心身に障害のある児童・生徒が通う学校で、幼稚部・小学部・中学部・高等部がある。基本的には幼稚園、小学校、中学校又は高等学校に準じた教育を行っているが、それに加えて障害のある児童・生徒の自立を促すために必要な教育を受けることができるのが大きな特徴。    学校教育法第72条では、特別支援学校の目的は以下のように定められている。視覚障害者、聴覚障害者、知的障害者、肢体不自由者又は病弱者(身体虚弱者を含む。)に対して、幼稚園、小学校、中学校又は高等学校に準ずる教育を施すとともに、障害による学習上又は生活上の困難を克服し自立を図るために必要な知識技能を授けること。 

 2回の時までは、月曜日から金曜日まで1限~5限まで授業が詰まっていた。3回になると授業の履修も大方取得し、時間の余裕ができた。そこで先輩に特別支援学校のボランティアを紹介していただき、毎週木曜日の午後に学生ボランティアとして行くようになった。そこでは自分が受けてきた形式的な教育的ではなく、個人に合わせた柔軟な教育が実践されていた。上記の「特別支援学校とは・・」に記載している、自立を促すため必要な教育であった。私はこれこそが教育で、一人ひとりと向き合い、個性の伸長を伸ばすことこそが教育のあるべき姿がここにあると思った。それからはここで働きたい!特別支援学校の教員になる!と決心した。

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 3回の後半には木曜日の午後からと別の学校で金曜日1日、支援学校にボランティアに行くようになった。ボランティアでは将来のための勉強はもちろんだが、何よりも行くことが楽しかった。学校に行くと心待ちにしてくれている生徒がいる。どの生徒も明るく表現の方法は人それぞれで、それもまた良かった。

 そして、4回の木曜日のボランティアで人生を変える衝撃的なことに直面する。





「学校に行きたい」





 私はこの言葉を聞いて衝撃が走った。それは木曜日のボランティアに行った時のことである。金曜日が祝日で、私が生徒に「明日の休み楽しみやな!なにすんの?」と声を躍らせて聞いたことから始まった。すると、その生徒は「休みなんかいらん。学校に来たい!」と言った。私はその言葉の意味がすぐに理解できず、「なんでなん?」と聞き返した。「だって友だちに会えへんやん。学校に来たら友だちに会えるし!」

 走馬灯のように自分の中学校生活のことを思い出した。学校に行っていたのは友だちと放課後遊ぶために行っていたようなものだったと。この生徒たちにプライベートの楽しみにしている時間がないのだと、わかった。今でこそ福祉サービスが普及してきて、放課後等デイサービスがあるが、当時は市が運営している1か所だけとかで、ほとんどの生徒がスクールバスで家と学校の往復をしていた。

 その時に「おれがこの子たちのプライベートの場を創る。」と本当にこれがこの人生の自分の使命だと感じる時であった。そして、その時偏見についても学んでいた。大学の卒論では「小学生を対象にした障害に関する学習の介入に寄る偏見の変化」を研究した。この研究で直接接触する機会を持つことで、偏見は大幅になくなることがわかった。そして、放課後の遊び方として、小学生は放課後「学童」へ行く。支援学校の生徒は「デイサービス」を利用する。なぜ同じ学年で一緒に遊ぶ機会がないのか?一緒に遊びたくなるような施設を創ろうではないか!そう思い、私の人生は支援学校の教員から


「障害のある子どもや地域の子どもたちが集まる施設を創る。」

に変わった。

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 これは将来、友だちと実現する形である。左は友人が世界から選りすぐりの絵本を置いている絵本屋で気まぐれに開いている。真ん中がビルで、1回には地域の人たちが集うカフェで、老人サロンを併設している。2階には保育園を開園し、絵本屋から絵本を借りたり、老人サロンと頻繁に接する機会を設ける。右は先ほど書かせていただいた施設を建てる。

 現在は支援学校で働きながら生徒一人ひとりの個性と向き合い勉強している。そして、近い将来施設を建てボーダレスな社会を創る。このnoteは私のコミットメントであり、実現の経緯を綴っていきます。

💛スキやコメント宜しくお願いします。 

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