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標榜のジレンマ

 自らスタンスを標榜すればするほど、それは知らず知らず誰かへのマウンティングへと繋がってしまう、といった場合がある。

訊いてもいないのに「私ってサバサバした人だから」「オレってこういうのに嘘をつけない人間だから」と先回りして言ってくる人など、近くにもそれなりにいると思う。

記事を綴りながらたまに思うのは、学びや感じたことを "自分という人間像" を通し書き残す事によって、自己解決的に指針がまとまっていくと同時に、相反して他者に対しても強烈なマーキングを呈し、"自分をこう見て欲しい" という欲求の方がいつの間にか優先して出てきてやしないか?…ということ。

知らない間に、記事で伝えたいことそのものよりも、自分自身のアプローチだけに特化してしまってやしないか?…ということ。

本当は静かに自己発揮することが理想だが、日々を過ごしていると、ついアピールしないと伝わらない、といった心境は往々にして訪れるし、その局面ごとに葛藤する。

誰が訊いてなくとも先回りして自己主張するのが SNS やブログのひとつの側面的魅力でもあるだけに、悩ましい。

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 note では、基本的に自分の身の回りで起きたことから何を学んだか?にウェイトを置いた話を軸に、もしシェアが叶えば嬉しいといった感じで更新しているのだが、書き綴っていると、どこか視点が自分中心になりがちなことがままある。

バランスをできるだけ取るように努めてはいるも、語りのウェイトが過ぎると、主張ばかりが目立ち、他者の想像の介入の幅を狭めてしまうリスクもあるんだなと思った。

物語の中で、本来全体の流れや演出から「汲み取る」べき心情を、登場人物たちが自らすべて説明してしまうことで、観る側の想像を働かせる余地がなくなる感覚を与えてしまうのと同じ類のリスクだ。

読み手からしたら誰でもないイチ人間のパーソナリティはどうでも良く、いかに共感と発見を "読み手自身の力" で見い出せるかがポイントなのだ。

「思ったことを思ったまま書く」というスタンスを標榜している人ほど、きちんと主観と俯瞰のバランスが取れていないと、当然だが大勢の共感を得ることはできない。"別にそんなことどうでも良い" 、といった仙人みたいな人なら別だが。

 標榜するということは、常にジレンマとの闘いである。

今日はこんなところで。

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