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運の良さを「255」まで引き上げる為に

 小物が頻繁に壊れている。

愛用しているパックマンのマグカップの取っ手が、洗い物の最中ガラスとぶつかって割れてしまったり、アニメーションドット絵を表示してくれる鑑賞用のモニターが、ふとした瞬間肘をぶつけてしまい、落下して画面を損傷したり…といった具合に。

以前も次々と身の回りの電子機器が壊れていく現象があった。
その時は Mac 本体や MIDIキーボード など、仕事にダイレクトに関わるガジェット類だった。

気をつけても度重なる故障に恐れおののいたが、その時に比べるとあくまでアクセサリー類の被害であるぶん、気持ち的にはまだマシだ。

 もちろん瞬間的にショックは受ける。場合によっては怒りすら覚える。

しかしこうしたことが起きる時、必ず様々な要因があるので、不注意への反省と同時に引き起こした環境の方にも目を向け、そもそも事故を未然に防げたポイントを出来るだけ遡って考え、今後の配置だったり、整理の参考にするよう頭を切り替えるようにしている。

そうすると、少しずつ脳も冷却されていき、思考が次のフェーズに自然に移行する。

実は今回、ドット絵モニターの落下先に開いた MacBook を置いていたので、もし落ちた先が悪ければ、Mac の画面まで損傷するといった二次災害を生んでいた可能性もあるのだ。そっちの方が目も当てられない。

そういった意味においては「不幸中の幸い」だったのかな、とも思える。

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 以前、「人間万事塞翁が馬」ということわざを題材とした『バランス思考』という記事を綴った。

 僕はいわゆる「好転反応(現象)」を起こし易い人たちや「運の良さ」を自覚している人たちは、このあたりの捉え方が非常に上手いと思っている。

起きた出来事が一見ネガティブであればあるほど、そこにあるかすかなポジティブを信じ、逆にポジティブな思いを抱く局面があった時、介在するネガティブも見逃さず油断しない。

そういった、物事の捉え方に色眼鏡を設けず、バランスや中心軸を常に意識した人の感情のブレなさの集積が、いわゆる「運の良し悪し」を決めているんじゃないか、といったことだ。

 「運」は自己申告だ。

自分が「運が良い」と言ってしまえばその人は運が良いし、「運が悪い」と言ってしまえば、言葉どおり運が悪い。

どのような出来事も、ミクロとマクロ、主観と俯瞰の使い分けなどを駆使しながら観察すれば、必ずポジネガの両面が存在する事に気づく。

そこを上手く捉え続け、両面の良い部分を常に見つめ続ける努力が、運の良さを「255」まで引き上げる一助になるんじゃないだろうか。

今日はこんなところで。

※「255」は、ドラクエの "うんのよさ" の最大値

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則宏史(noreason studio)
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