アニメ

ゲームとテクノと一人旅。
そんな過去記事は覚えがある。
じゃあ、あとは、心を置いて、アニメを書くことになるだろう。

9月1日23時。
ニコニコ動画を見て過ごした。
そうしてようやく決着できた。
日付はとうに変わってしまった。


奄美大島は土俵が多い島だ。
偽りなく島内の一集落に一箇所は土俵跡または土俵が点在する。
父母、祖父母、曾祖の代へと遡るごと集落の形は理念が基づく。
古い本や新聞をめくったり、誰かの雑談で聞いたり、そういった程度の知識を開くことになるけれど、毒蛇が守護する山から降りて信仰対象の神が往来する海まで、裾野の道のりには集落が存在するのだという。
これをわたしは蓄積された知恵の伝承なのだと思い込んでいて、畏れと共存する生活を住民は営み、今日まで至ったのだろうと表現する。
畏れが伝わる社会だから、人々は文化の継続に費やせたのだ、そんな言葉を並べて表現をする。
衣食住と歌があり、遊びとしての踊りがあって、神事や儀式が受け継がれる真剣勝負、相撲を要した。
そのため各集落は土俵が残っている。
分からないままに分からないを表現するとしたら、このように書く。

なぜ土俵を書いたのか。
時系列で並べたくなったからだ。
9月1日。
140文字の投稿、就寝、目覚め、そしてアニメまで。

朝は次の日曜日に控えた敬老豊年祭という行事の準備が始まっている。
羽子板めいた器具を使って、片面を振り下ろし、叩きつけずに引きずる。
上面から側面と赤土を覆わせて土俵作りを仕上げる。
乾いた木、水でなじませた赤土、方方の音と紛れて時間を過ごした。
町内会長とも見合っては、こちらの方に声が掛かる。
「相撲は出るの」
「まさか。10年近く取ってないですよ」
「知ってると思うけれど、誰も出られないと取組も決まらないのよ」
昨年の敬老豊年祭は真剣勝負が省かれている。
儀式としての相撲を始まりに、土俵の上での出し物と続いて、最後は町民らが贈る抽選会で日程が終了した。
親から子孫の代ヘ、わたしたちから次代の生活へ、かつて共存していた畏れは確かに取り払われつつある。

帰宅後のアプリ通知。
カツジさん。
午後に約束したトレーニングジムを呼び出す内容だ。
ウェイトルームとバイクルーム。
わたしは別室にてエアロバイクが表示する数値で夢想を広げる。
浸ることでしか間が持てない直感を従えて、無理矢理この空間を楽しもうと意気込んだ。
君はやりたい趣味が多いのは良いけれど、ぶれ過ぎじゃない。
勤め先の所長に直接、先の評価を受けたのだとカツジさんは告げる。
エアロバイクの心拍数と島内の景色を合わせるにこやかな孤独も過ぎた後、わたしとカツジさんは合流して運動公園の外周を歩いている。
所長の告げたカツジさん評は概ね正しい。
最終的に流れ着いた場所が住んでいる町内だったからだ。
筋トレ、散歩、スケボー、少年野球、回顧と語り、18時の日没。
続く波間、山へ落ちる日、赤い雲、それらを目の当たりに寄りかかる堤防。
語る態勢が整う。
そんな景色。

あの団地、と指で視線を誘導させる。

「好きな人があっちに住んでる。うん、結局は好きな人のままだったけど」
「可愛い人ですか」
「可愛いかは別。ああ、言ってしまえば、これまであった好みがその好きな人を基準に考えるようにはなった」
「どういう」
「眼鏡を掛けている人。そう、今までだったら。眼鏡掛けてるなってだけで見ていたのがそうじゃなくなって。テレビドラマに出てくる眼鏡の女優さんから好きな人を思う。そうなるような。知り合ったのは前の作業所、ここの近所を利用してた時に一緒の作業を……」
「その人はスタッフ。あっ。利用者なんですね」
「うん。作業所を離れる直前で電話番号のみ交換して、2週間は電話して。映画に誘っては断られて。それからずっと音沙汰なし」
「今も」
「そうね。好きな人のまま」

わたしの語る調子は点々と場所を移動し尽くした結果である。
「君はぶれ過ぎている」と告げられたカツジさんへの評価が、わたしなりの後押しやお節介で変換されている。

「質問します。聞いてもいいですか」
「えっ、はい」
「カツジさん何歳まで、生きたい」
「ええっと、60。うーん、やっぱり65」
「65歳。それじゃ、どんな寿命を迎えてる」
「なにそれ」
「はは、いや、決めてるんですよ。最期の瞬間をわたしは99歳で迎えます」
「99って」

この場限りの高ぶりにわたし自身の感情を委ねた。
たった4時間の休日が共有できた末のぼやきを信用した。
「手を差し伸べる人へ応える自分がいたら、こんな風にはならないのに」
カツジさんのぼやき、お互いの発言は温度差があった。
それが過去の記憶へ向けられた無茶な要求であろうと。
真正面に受け止める自己実現として向き合うくらいは。
迷うより先、一石を投じる。
まず会話の到達点を示した。
話しながら展開する思いつきでもって対話が成立してもしなくても、どちらへ転んでも、その時はその時だ。
導入部は語り慣れている。
99歳の最期に見える奄美大島を幾度となく描いたら、迎える景色を奏でた。

「今から65年後、99歳の最期まで、さっきの好きな人とはまた別の人。好きというより憧れた人。その人が歌う八月踊りの場で、ディスり合って最期を迎えたい。そうやって相手は100歳で死んで欲しいと思っています」
「ちょっと、ちょっと待って。99と100って。なんか遠すぎません。死んで欲しいとかそこまで考えるんですか」
「ちょうど良くないっすか」
「それは。えー、寝たきりになったらどうするんですか」
「歌が歌えればいいんです。ディスりたい」
「歌う。ディスる。そもそも自分は、八月踊りが正直よくわからないです」

なりふり構わない言動の波を察したのだろうか。
果ては続く流れへ乗ろうとしたのだろうか。
曖昧な65の寿命にも実線が引かれる。

「えーっと。じゃあ俺は65歳で、11月の結婚記念日に相手の横で眠ったまま手を繋いで死にたいな」
「おおっ、相手は何歳。同じ年齢。うんうん。そうですね」

続く波。

「それなら60歳だとカツジさんは何をやってますか」
「そこは、えっ、もう考えなくて良くない」

ふと4時間の総括が見える。
何が言いたかったのかを捉える。
それは8月31日の夜に懸ける願いだった。
ぶれ過ぎている、評価に異を唱えるならばこんな見方はどうだろう。

「60歳。考えましょうよ。それできっぱりと諦めましょう」
「はあ」
「65歳まで残された時間と優先順位をつけるんです。優先順位ならぶれてもいい。わたしだってぶれぶれです。ぶれたら、ちゃんと心を折って、諦めるチャンスにする」
「諦める。って、諦めないと駄目なんですか」
「はい」
「それは、例えば」
「今日のスケボー」
「スケボー」

今日、1時間だけ耐え抜いたスケボーを例に出した。
20代男女8人のバーベキューグループよりも遠い嘲笑が飽きるまでの1時間を例に出した。
買っただけの、いや、買ったのみで終わるべき安価なスケボーや注ぐ時間をそっとつぶやいて天秤にかけた。

「スケボーはこれから先もやりますか」
「やります。やる」
「どこまで」
「オーリー、できるようになりたい」

バーベキューグループの的確な笑いが示す。
「もう小学生じゃん」
バーベキュー仲間の誰かが挑み続ける端の端、忽然と現る謎は、遊び方すら届かないスケボーを交代で乗っている。
バーベキュー仲間が繰り広げるトリックには歓声も挙がらない。
その空気で、カツジさんが心を折らず興味を失った間を確かめて、わたしはわたしにスケボーを課した。
オーリー。
15年前を思い出す。
友達が跳べた瞬間と挑んだ時間を知っている。
何も持たずにわたしは見ている、跳ぶ瞬間をずっと見ているだけだった。

野暮な挑戦は一切しない。
15年前が戻っても、これから先も、わたしが跳べる日は永遠に来ない。
戻るわたしが唯一思い返すとしたら、休憩中の友達から借りたボードと隙間の遊び方を得たチクタクぐらいだ。
たった一回きりの余興として、2チームに分かれたリレーという遊び方。
ここから何も派生しなかった、それも理解できていた。
「あっちへ行って、こっちに帰って来る」
15年前のわたしが今日のわたしにスケボーを課した。
空間の広がる駐車場奥は端から端へ、一回きりの余興にしか派生しなかったチクタクで、誰の邪魔にもならないように努めた。
体勢を崩す場所で止まって、止まっては両足の間隔を修正して、何度と地面を踏む。
やがて息が切れる。
3往復目。
誰の邪魔にもならない場所で転んだ。
幸いなことに遠い嘲笑やカツジさんは飽きていた。
横でスケートボーダーが繰り広げるトリックには歓声も挙がらない。
もう小学生じゃん。
的確な単語はわたしも笑ってしまう。
1時間で心を折った。

26℃の冷房温度はタオルケットとゴザの寝床、テーブルのパソコンを開く。
ニコニコ動画の検索窓を入力した。
アニメを見る。 
「土日休みなら、2周でも4周でもいいから必ず見てよ」
同窓の友達またはアニソンDJ「レッド」の名を持つミヤオとの契約が、まだ頭に残っていた。
まずはカツジさんと仲が良いヒラバヤシさんのオススメを入力する。
今日一日の出来事は何かが引き金となっていた。
「火ノ丸相撲」
「ダンベル何キロ持てる?」
「団地ともお」
「八月のシンデレラナイン」
残念ながらこれらは該当しない。
言わずもがな「うっちゃれ五所瓦」ではない。
「マッチョでポン」も「余命1ヶ月の花嫁」も違う。
「ヒプノシスマイク」と「涼宮ハルヒの憂鬱」でもない。
「百物語」や「SNS」に「島の踊り子」か「SK8」のどれでもなかった。


この2作品を1話だけ視聴した。
「ゾンビランドサガ」
「宇宙よりも遠い場所」
ようやっとアニメを書く。

わたしは初めて触れる作品だったら、大抵、独り善がりに編み出した結末と進行するストーリーが掛け離れるまでを楽しもうとしている。
そうすることで熱を保つようだ。
このような感じで実物との乖離を楽しむ。

「カメラを止めるな!」
わたしにとって途中までは、一人の役者と一体のゾンビを惑わせるため全ての人物が本物以上を演じるドキュメンタリーだった。

「君の名は。」
名簿の名前だけ書き換えられる奇跡を期待した。

そういう訳で両作品とも1話限りの結末を短く書いて、長々と連ねた9月1日も総括を引っ張って終わる。

「ゾンビランドサガ」
ゾンビ作品を見慣れていないためか、カメラを止めるな!のケースと似る。
真にゾンビ姿こそがメイクで高度な演技力がアイドルを最高の舞台へ導く。

「宇宙よりも遠い場所」
驚嘆で唸った。
信頼を置くミヤオの彗眼、旅立つ初回が最終回であっても納得する。
2周でも4周でもが無理だとしても、結末は見たい。

そうして「宇宙よりも遠い場所」を最後のアニメ視聴と終えて、わたしの心を折りたい。
翌日のヒラバヤシさんには何やかんやを伝えた。
「僕の好きな作品と最後の作品が同時だったこと、本望でした」
いつものように笑った。


最後に、ハッシュタグ「エッセイ」についても、9月1日で心を折りたい。
5ヶ月を騙し騙し書いてみたものの日記でしかなかったから。
99歳の最期まで憧れた人と八月踊りの場でディスり合い。
そのような結末をつけて。
それではまた明日。

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