標識

嫌いな言葉がある
嫌いな事柄を書くから、立つ波風も穏やかにしたい

……

フェイスブックで、わたしが嫌いな言葉を投稿した。
30人前後の友達限定公開アカウントは平常運転で、炎上する恐れもほぼ無いだろうと踏んだ。
だからこそ細心を払って書かなければならない。
勤め先の所長、同僚、利用者。
あとは同窓生、何かをきっかけで知り合えた人々。
日常であっても「嫌いな言葉」なるエゴは、あしらわれるべき不要な情報であるからだ。

週末のスタッフミーティングで飛び交った、嫌いな言葉が嫌だ、大嫌いだ。

安直な「嫌」が残らない、前文のようには真っ直ぐ障らない投稿を、遠回りにも迂回するウェブ状の考えを張り巡らせた。
主として勤め先で関係する10名へ向かわないように。
待ちわびた安息を過ごす誰か、誰かの目には止まるように。
そのような経路をたどって嫌いな言葉を一切載せない文章を続けた。

わたしの中では負の感情諸々が投稿文の6行ほどで収まっている。
些細な悩みと自覚できた。
ほっとした。


かくして、ここの記事を読む方々へ、限定公開の友達以上に受け止められる信頼を抱いている。
嫌いな言葉を明かして、理由も述べて、6行に変換した昨日を伝えられる。
待ちわびた各々の休息を汚してしまう恐れはあっても、とある福祉事業所のスタッフミーティングで聞こえた懸念点を些細な悩みとして共有したい。

6行で収まる負の感情は、フェイスブックの投稿はこう締めくくっている。
嫌いな言葉があると告げて、平常な投稿で流す要旨を前置きして、肯定的に解消できたと結論だけ出して、最後は所感で締めている。

きっと週明けのわたしからは、「挑戦ができる人」といった言い回しが多く聞かれるかもしれない

レベルが高い利用者。

それは、挑戦ができる人を指していた。
そうであって欲しいのだ。
利用者を経てスタッフを務める今は。

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