額縁

年内の残り、五週間を分割した大(小)掃除を行う中で、自室には二つ額縁が飾られているとあらためて気づいた。一つは昨年2月に仕事関係の研修を終えたことによる修了証書。さらにもう一つはその研修先より帰着するまでの、2008年より始まったわたしの12年間へ区切りをつけるための修了証となる。どちらの賞状も手作りの暖かみが感じられて、贈り手より与えられた言葉や交わされた握手もまた昨日のことと思い起こされる。

今夜は両親とたくさん話をした。夕食後の2時間ばかし。こちらの語りを先行させて。思いつくままに、これまでを振り返るように。語っては、頷き合った。これだけの時間を色々に話せたのも、きっと私自身が行く道を継続できているからだろうという結論でもって、ひとまず今日という日を収めた。

修了証。2008年というのは、わたしが精神障害である「統合失調症」を医者から告げられた年だ。

あの日から、昨年2月まで。12年間。家族全員より(厳密には両親と一番上の兄が代表して)当日のわたしへ。心と精神の成長課程を修了できたと贈られた賞状は、身内ノリの遊びが感じられて、とても気に入っている。事実、「完治はしない、『寛解』という言葉のみがある」とされる精神障害であっても、こうやって「ごっこ遊び」の範疇であれば認められてもいいのではないかと今でも思う。わたしは確かに一日ずつの成長を実感できたのだから。

説明がつかない精神障害について、絶えずわたしは誰かへ伝えようともがいた。ある時は身振り手振りに頼って、またある時は難解な思考からなる特殊な言語によって。そのうちに、怒りと悲しみという感情を分かち合って、おもむろに客観性を伴った笑いへと変化させて。伝えにくいことも伝わりづらいこともその都度順序を入れ替えてみたり、あえて省いたり近しい表現へと紛らせてみたり。このnoteの場でもおおっぴらに、名も無き者の自己紹介として投稿したことがあった。今日の記事だって多分そうだ。過去にも未来にも、わたしはこの伝わらない精神障害について、誰彼に合点が行くような解答を求めてずっと向き合っている。自身が精神障害者であることと、障害を持つ世界から見える言葉を貴方の想像とも少しでも近づけるために。

それはいらぬ世話焼きかもしれない。もしくは自己満足のために身勝手にやっていることでもある。わたしは独善的な言葉を重ねれば重ねるほどに、自分が元へと戻る思い違いさえ抱く。

「わたしはあの日、あちら側の世界へ一歩だけ踏み込んで、入り口付近で引き返した」と、そう語る口振りは決して正常であることを装うためのものではないのだけれど。今はまだ額縁に収められた修了証でしか、家族とわたしにのみ通用しうる遊び心でしかないものなのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?