八月の節や

休日の自転車旅、気ままな行き先を道なりへ走らせる。
写真や動画、あちらこちらにスマートフォンを構えた。
そして、わたし自身がそんな都合の良さに、目を閉じてしまっていた。
同じ構図の写真を選んで、再度動画を撮り直して。
自身に説いた。
嘘をついてしまうのだな、と。
偶然に通り過ぎた集落は踊りの準備が進められている。

島は旧暦八月の後も幾つか踊る機会が設けられていて、それらは各地区で時期が異なる。
餅貰い(モチモレ)、種下ろし(タネオロシ)、家回り(ヤーマワリ)などの呼び名で家々の祝事を務めたり、場所によっては、公民館の広場や土俵周りに集まって夜を踊り明かしたりと、様々。
昔々はそれらの集いも意味を成していた。
五穀豊穣を慶賀したり、無病息災を祈願したり、何だか篝火の周りに御馳走と御酒を囲んでは、そのような踊りの場を組み立てたと遠くの話を聞いている。
時代は変わった。
広場中央には、飲み物と食べ物を置くための長机が配備されて、照らし出す蛍光灯を一目に、わたしは「今日、この場所で、踊りがあるだろう」と予見する。
その通りにあとは夜を待つだけだった。


わたしは動画を撮る。
道路沿いに開ける花壇が興味を引いた。
草花が象るハートやクローバーの並びに気付いて、横に歩きながら撮影して、元へと戻る。
再三繰り返して、確かめて、また撮影して、元の場所に戻って。
道路を挟んだ先の光景と動画の出来を重ね合わせる。
公園。
漁港と隣接したその公園は、過去の記憶を切り離すような面影だけが取り残されていた。
もう思い出は失われていた。

駐車場の端に自転車を停めて、足を踏み入れる。
掲示板のポスターは真白に色褪せて、腰辺りまで伸びる雑草が遊具の数々を覆い隠す。
時々踏んでいるアルミ缶の感触は、酒類のごみが平気で捨てられているのだと判断する。
やっとで着いた休憩所からの景色も遮られた。
防波堤。
壁を見る。
しばらくして、動画を撮った花壇の方向に振り向いた。
雑草と道路を挟んだ反対側の花壇が、興味を引いた。


あの防波堤はどんな思い出を残せるのだろうか。
そんな考え事の中、気ままな行き先を道なりに、漁港の公園と花壇を後にして、スマートフォンの動画データは嘘をついたまま、次を目指す。

日が暮れた後に戻って来れたら、踊り始めにも間に合うだろう。
十三夜の月にあれば通り過ぎる漁港の公園も、集落外れにある広場で、あの蛍光灯の明るさで、全て掻き消してくれるに違いない。

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