電気が灯る日

これは嬉しいことだ。
ただその嬉しさをうまく伝えられないだけなんだと思う。
何なら、流される感情に任せた指で「嬉しい」とだけ残しても許されるに違いない。
だから、あえて、月並みな言い方を選べば。
苺のショートケーキを目の前にする昭和の男の子のように、最後の最後まで喜びを取っておこう。

話を遡るならいつ頃がいいのだろうか。
開いた傘に雨音が跳ねる昨日の散歩を思えば、今日の夜だけはBGMが欲しいなという神がかり的に微弱な思いつきが伴って、付属品の白いイヤホンから漏れる音量も気にせずに道を歩いた時になるだろうか。
Spotifyはその度々にシャッフル再生が続いて、瞬間で思い出せたある曲のイントロで立ち止まる。
「猫夏だ」
実際には起きなかった出来事も、事実と全く異なるこの思い出も。
どんどん捏造していきたい。
それくらいにわたしはハイになっている。

書き始めるにつれて、ふと、noteを始めたきっかけなんかも引き出された。
ネットニュースの該当する記事で思い起こされるは一年と三ヶ月前。
ちょうど『絶好調』を吹聴するように手当たり次第周囲の人々へ、普段の生活では口にも出さない怒りや憤りを訴えていた覚えがある。
"忙しさを越えて、次のヤマも定まって、また歩き出して。"
あの日に思い描いた危惧通りわたしの生活は一変したけれど、これからの不安には目をつぶって、今日をやり過ごしていきたい。

話はずっとずっと昔のある夜。
明確な日付と時間さえも忘れつつある。
わたしの住んでいる市内一帯が原因不明の停電に包まれた日のことだ。
台風のような自然災害でもなく前触れも無かった急な暗闇は、携帯電話やスマートフォンへ手を伸ばすことなく懐中電灯を探し回っていた記憶があるから、相当に古い事件なのだろう。
どこにも明かりが見えない中を手探りで調べるうちに、不思議と人体の瞳孔が順応していくのがわかった。
暗さに慣れたわたしの眼は家族とお互いの表情もはっきりと捉えて、その後に外の様子を確かめようとして玄関かベランダへ出た。
どっちだっただろう、それすらもあやふやだ。
辺り一帯の輪郭はあれども、人工的な光は全く見当たらない。
ただ、とても良く晴れた夜であったとわたしは覚えている。
上空にはどこまでも深々と広がり続ける星空が動いていたからだ。
そうして背後と目の前が復旧した明かりで照らされるまで自然界の瞬きに見入っていた。
そう、あれが自然の、人間本来の眼の機能に違いないと刻んでいる。

何かが失われた時にわたしたちは経験する。
それがお気に入りとするアーティストの失墜であったとしても、様々に混ざった感情へ気づくことができる。
街灯が所々に眩しい街並みで聞こえた昨晩の『猫夏』が、わたしの中にも電気が灯っていたと知らせている。
そのことがいつまでも嬉しく、先の足取りを軽くさせた。

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