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『森の来訪者たち』--70代の作家が別荘にプチ引きこもり、生物と人間について考える

 10月31日、草思社より新しい訳書が刊行された。
森の来訪者たち | 草思社 (soshisha.com)

 著者ニーナ・バートンは1946年生まれ。スウェーデン語原著の刊行は2020年なので、74歳のときの発表作となる。

 著者の執筆意欲は旺盛で、この別荘を購入したのも「原稿を持って引きこもれそうだったから」。

 おそらくかなり安い物件だったのだろう。天井裏にはリスが棲みつき、床下にはキツネやアナグマが出入りする。壁の中には二種類のハチが巣をつくり、壁の上ではアリの隊列が行進する……。

 とどめは、なんと湿気のために海に面した壁が腐敗していて、取り壊すことに……。

 執筆に専念するつもりで買った別荘なのに……。しかし著者はめげることなく、これまでの知識を総動員して、動物との出会いを楽しむ。

 ドタバタと頭上を走りまわるリスに悩まされながらも、「古代とルネサンスの両時代、リスは貴婦人たちのおしゃれなペットだった」ことに思いを馳せ、「人造鉱物繊維であるロックウールは気道をひどく刺激するはずだ」と天井裏の住民の健康を案ずる。

 私はタイトルに「70代の作家」と書いたが、本書は老いに関する記述はない。私が感心したのは、70代でもこれだけ知識欲旺盛でかつ博学でいられることだ。私自身が今年、還暦なので、老いても健筆な作家がいるとことは大きな心の支えになる。

 著者の人生には二人の särbo(セルボ)がいたそうだ。 särboとはなにか? スウェーデンに関心のある方なら、sambo(サンボ) という言葉を聞いたことがあるだろう。Sam(一緒に)bo(住む人)という意味で、同棲相手とか同居パートナーという意味だ。
 私の周囲では、1~2年ほど同棲したあと結婚するカップルが多い。
 Särboは sambo とは違い 、恋愛関係にはあるが sär(別々に)bo(住む人)のこと。日本では結婚するまで別々に住むのは当たり前なので、拙訳書では「恋人(ルビ:パートナー)」とした。

 著者はあまり私生活に触れないが、もともと「ひとりでいることが苦にならない人」のように思える。といっても完全な引きこもりではなく、ストックホルムと別荘を行き来するし、調査のためなら海外にも行く。姉やその子どもたちとも良い関係を続けている。それでも、基本的にはひとりでいたい人なのだろう。

 著者によると、執筆とは「デスクに座ってやる建築工事」だそうだ。「大きなテーマの本を書くときには一人になりたい」と言い切っている。

 そうして別荘を買ったバートンを、『自分ひとりの部屋』を書いたヴァージニア・ウルフが見たらどう思うだろう? 文学作品を書きたくても自分の書斎など持てなかった女性たちが、つい百年前まで大勢いたのだ。21世紀の今、女性作家はアパートに自分の部屋を持つだけでなく、もっと「ひとりになりたくて」別荘にこもることが可能になった。

 しんとした夜、小屋のベッドに入り、宇宙に関する本を読んだり、キツネの喧騒にハラハラしたりする。そんなある夜、著者は屋外でアナグマに出会い、こう表現する。
「アナグマの顔は光と影の縞模様」
「そのツートンカラーの毛皮は逆説的な性質を表す。単独行動するがグループで暮らす。恥ずかしがり屋だが、家族のためなら勇敢。夜行性だが視力は弱い」(一部略)

 原文を読んだ私は「?」と思い、調べてみると、ヨーロッパアナグマはニホンアナグマと違い、白黒がはっきりしているのだった。

左 ニホンアナグマ。右 ヨーロッパアナグマ

 別荘の床下にはキツネも出入りしている。著者はキツネの敏捷さや家族の絆に感銘を受け、アナグマについては、のっそりしているが二面性である点に愛着を覚える。

 そうそう、本書とは関係がないが、ミツバチもニホンミツバチとセイヨウミツバチでは特徴が異なる。
 さて、ハチにも脳や筋肉があること、筋肉を震わせて発熱することなどを本書翻訳中に学んだ。「え、ハチの脳? ハチの筋肉? 訳語はこれでいいの?」とあわてて確認してしまった。だってねえ、あんな小さな昆虫に脳とか筋肉とかって……。
 余談だが、ニホンミツバチには敵を集団で囲み、発熱して蒸し殺しにする「熱殺蜂球」という必殺技があるそうだ。しかし2019年にはセイヨウミツバチでもそれが観察されたということが『ハチのいない蜂飼い』という本に書いてあった。

 多くの動物に出会うバートンは動物の知性についても考える。そもそも知性とは何か、動物の知性を人間が測れるのか、という問題があるが、動物の知性は人間がかつて考えていたよりも高い。これは鳥の知性研究の名著『アレックスと私』でも主張されている。
 一般的に哺乳類と鳥類は子が独り立ちするまで親が面倒を見る。教育するから知性が高くなる、と考えられていたのに、それを嘲笑うような動物が登場する。タコだ。
「クジラは人間の知性理論を支持してくれるが、タコはそれを最も屈辱的な方法で妨害する。タコは短命で、数十万個の卵をけなげに守っているあいだに餓死する」
「人間にとって最も信じがたい事実は、この知性が軟体動物門に属していることだろう。ご先祖を辿ると、人間はタコよりナマコに近いと言われている」
「知性の進化には明確な方向性や頂点はなく、タコの八本の腕のように分岐している。だが、その腕はどれも同じものを指し示している――生命の驚異だ」 (一部略)

 動物を見ると、あれこれ考えずにはいられない作家ニーナ・バートン。本書は動物に関する生物学的知識のほかに、それにまつわる人類の歴史の情報も充実している。

 この本は、冬の静かな夜の読書にぴったりだと思う。昼間の喧騒(=人間社会)からちょっと離れてみたい方、動物や地球生命に思いを馳せてみたい方にお勧めしたい。

(文責:羽根 由)

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