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『LAMB/ラム』をアイスランドで観たときのこと

 アイスランド発の映画『LAMB/ラム』(原題:Dýrið(動物))が日本で公開されてから約1 か月が経った。興行収入が1 億円を突破し、封切り後早々に売り切れたパンフレットや公式グッズの一部が再版されるなど、非常に人気らしい。
 筆者は、本作がアイスランドで公開されたときに最寄りの映画館で鑑賞し、それからアイスランドでの批評記事もできるかぎり目を通したが、これほどの小さな熱狂が日本で巻き起こるとはまったく予想していなかった。実のところ、公開されたら「なんだこれは!」と混乱から声を荒げる観客が少なくないのではないか、と思っていた。いや、これは、アイスランドで観たときの周囲の観客の反応が幾分そういったものだったからかもしれないが。


 以下では、アイスランドで本作を観たときのことを書きとめることにする。もし、監督と共同で脚本を担った作家ショウン(Sjón)のことやアイスランド民話について気になるのであれば、公式パンフレットに寄稿したコラムを読んでほしい。劇場かオンラインで入手できるはずだ。


 2021 年9 月24 日にアイスランドで公開された『LAMB/ラム』を観に友人と映画館へ行ったのは、公開から約3 週間が経ってからだった。いち早く足を運ばなかったのは、単にほかの予定が詰まっていたからで、興味がなかったわけではない。それに、他の映画を観に行ったときにトレーラーは見ていたから、どういった作品なのかをあれこれと想像はしていた。ただ、映画評には意識的に目を通さないようにして、実際に観るまでは作品についての情報をなるべく避けるようにしていた。

(アイスランド国内向けのトレーラー)

 友人とアイスランド大学で待ち合わせてから、近くの映画館に向かう。『LAMB/ラム』は、100 座席もない一番小さいホールで上映されていた。入ってみれば観客は20 人ほど。存外に多い。無音で広告が繰り返し投影されるあいだにポップコーンを食べつくした観客がチョコレートの包みを開け、スマートフォンで通話する高校生らしき男の子が「やべえ、すげえ」と連呼している。普段よりは賑やかな映画鑑賞になりそうだった。自由席だったため、反応が大仰そうな高校生グループから距離を置いた、後列の真ん中からすこし左にずれたところに腰を下ろす。スマートフォンの電源を切り、映画とは無関係の世間話をしながら、売店で買ったM サイズのポップコーンを食
べる。まぶされた塩で唇が縮みあがるのを感じ、水を取ってくるか迷っているうちに映画が始まった。

 日本の観客と比べると、アイスランドの観客は、映画にしろ演劇にしろ、素直に反応する人が多い。笑いのツボにはまれば大声を出して笑い、驚愕すれば映画のように「そんな」とか「あーあ」とつぶやく。気になったところがあれば、隣に座る連れに即座に(そっと)話しかける。10 月12 日の回で『LAMB/ラム』を観た観客たちも、その例に漏れなかった。
 アダの全身がスクリーンに映し出されたときから「マジか」「うわぁ」と何度か声を漏らし、そのうちのひとりは、マリアとアダが入浴するシーンで短く鋭い悲鳴をあげた。イングヴァルと彼の弟の会話では笑いが起こったが、ラストシーンでは水を打ったように静まり返り、容器の底にあるかもしれないポップコーンを探す指の音すらしなかった。そこにいる誰もが、目の前の出来事の行方を見守っていた。スクリーンいっぱいに映し出されるマリア。彼女の息遣いに耳をそばだてる。そして、その次にホールを満たしたのは、「おいクソ、ちょっと待てよ!」という観客の叫びだった。
 監督の名前――ヴァルディマル・ヨウハンソン( Valdimar Jóhannsson) ――がスクリーン中央に現れ、物悲しい弦の音とともにスタッフロールが淡々と進む。高校生たちは照明が点く前に立ちあがると悪態をついて去っていき、その後ろに座っていた老夫婦も「あらあら」と言いながらコートに袖を通して颯爽と出ていった。スクリーンが真っ白になって、再び広告が映し出されるまで席に座っていたのは、筆者と友人だけだった。

 映画通ではないながらも、これまで観られるかぎりアイスランド映画は観てきたから、今しがた目にしたものがアイスランドらしい映画ではないことはわかる。また、自分が映画らしい映画を期待していたことに気づいて落胆したが、これを物語と言うにはどこか気が引ける。「こんな出来事があったのだ」とだけあっさり語られたような気分で、手の込んだ物語というよりも素朴な民話を村の生き字引きから聞かされたようだった(筆者にそんな経験はない)。
 その後、『LAMB/ラム』に興味があるがどうだったか、などと訊かれると、「何の事前情報も得ずにただ映画館に行くことをお勧めする。目の前の出来事をただ見るのに徹するのがよいと思う」と答え、それ以上を求められれば「よくあるホラーを期待しない方がよい」と付け加えた。また、どんな映画かも気にしない方がよいだろう、と。

 ショウンが脚本で参加する映画は、今後も日本で公開されるだろう。すでに2023年1 月には『ノースマン』が公開予定であるし、アリ・アッバシ(Ali Abbasi)が監督で、ノオミ・ラパスがハムレットを演じる現在製作中(のはず)の『ハムレット』の翻案作品も、上映されるのではないか。文芸作品よりも映画を通してショウンが知られていくことに寂しさを感じはするが、アイスランドの知名度が日本で上がることは喜ばしい。アイスランドの映画がどう日本の観客に受け止められるのか、それがアイスランドと比べてどうなのかを知ることができるのは、アイスランドに暮らすささやかな利点のひとつだ。

文責:朱位昌併

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