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「若者」と「住まい」から考えるスウェーデン社会

 8月20日、グレタ・トゥンベリさんが、学校ストライキを始めてから4年になることをツイートしていました。4年前のこの日は月曜日、新学期の始まりに合わせて、彼女は「気候のための学校ストライキ」というプラカードを持ち、国会議事堂前で座り込みを始めました。この年の9月、スウェーデンで4年に1度の選挙が行われることになっており、当初、彼女は投票日の9月9日までストを続ける、としていました。スト決行にいたるまでの、何年もの葛藤や困難などは『グレタたったひとりのストライキ』に詳しく記されていますが、この年が選挙の年だったことも大きなきっかけのひとつとなったのではないかと思います。気候変動に関する政策が選挙の争点になっていないことを彼女は訴えていました。
 冒頭に言及したツイートから始まるスレッドの最後のツイートには「投票するだけでは足りません。変化を求める私たちの声を大きくしなければいけないのです」とあり、9月2日と9日の一斉行動が呼びかけられています。2018年の総選挙の投票率は87%を超えています[※]。それなのに、いや、だからこそでしょう、投票だけが住民の声を伝える方法ではない、と言いきっています。

[※]近年の選挙の投票率の推移を見ると、2002年には80%まで下がっており、そこから少しずつ上がってきたようです。

 スウェーデンの作品を翻訳する機会をもらうようになり、訳した作品などを通じて、スウェーデンはどんなところなのか、と尋ねられることが増えてきました。長く滞在した経験があるのは20年も前、コロナ禍以前でも訪れることも長らくできていなかったため、あまりアクチュアルなことを肌で感じられていませんが、質問を受けるたび、現代のスウェーデン社会がどのようにつくられてきたのか、もっと意識して学ばねば、という気持ちを強くしています。
 スウェーデンに限らず、北欧諸国全般に関しては「とにかくすばらしい国だ」という絶賛型のべたぼめが多い一方、「そんなことはない、こんなにひどいこともある」というカウンターのような議論を目にします。完璧な国なんてないでしょうし、どこに住んでいたとしても、よいところと悪いところはあるはずです。社会システムが整っていても実態は理想と乖離している、ということもあるでしょう。それでも、現在の日本にとって、北欧各国に見習うべき点はたくさんあるというのは確実に言えると思います[※]。

[※]国家や大企業による統計不正の常態化、通貨価値の下落、汚職まみれの政治家、一部企業を優遇する政策、などが蔓延する社会が暮らしやすいとは到底言えないでしょう。また、万能な指標ではないものの、OECDのジェンダーギャップ指数の116位という順位はある程度の現実を伝えているでしょう。

 前置きが長くなりましたが、最近読んで感銘を受けた、スウェーデン社会の成り立ちを考えることができる書籍を、印象的だった部分を中心に紹介します。

『若者からはじまる民主主義』(両角達平、萌文社、2021年)

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 著者は若者の社会参画を専門に研究しています。学生向けの奨学金や交通機関の割引など、若者が暮らしやすい制度が整えられているスウェーデンでは、投票率も高く、早くから政治活動に参加する人も多い、それはなぜか。学校教育、社会教育、若者が自主的に運営する団体でのフィールドワークなど、現地での体験なども踏まえ、若者向けの施策のしくみや現状、歴史的な経緯をとてもわかりやすく紹介されています。
 強調されているのは、若者の社会参画は決して目的ではない、ということです。若者自身も社会の一員であり、社会の在り方に意見を持つのは当たり前のことなのです。大事なのは、若者たちの意見を政策にどう反映していくか、ということ。そのしくみについても詳しく書かれています。私たちが考えなくてはいけないのは、若者に政治に参加してもらうか、ではなく、いかに若者が声をあげやくするか、その声をもとに社会を作っていくか、なのです。

 日本でも、若者会議や若者のアイデア募集などを行っている自治体もありますが、だいたいはその意見やアイデアを大人が評価して終わり、という感じではないでしょうか。わたしが住む自治体でも、何年か前に、まちづくりに関する中高生の意見が自治体広報紙に掲載されたことがありました。過疎化が進む地域であってもこういうまちになれば住み続けたい、こんなまちにしたい、という意見に共感しました。具体的な提案も賛同するものが多かったのですが、その後それを反映したまちづくりがされているようには思えません。

 どうすれば若者の意見が伝わるんだろう、と思っていましたが、本書の「おわりに」にこんな指摘があり、ハッとしました。著者は、「大人や政府など放っておけば「権力」が自然に集まりやすい主体が、権力構造に自覚的になり、身を引いて、権力(権限)を若者に託すというプロセス」が、スウェーデンでは意識的に取られている、と書いているのです。
 身を引いて、権限を託す、とは非常に重い言葉です。権力構造に自覚的になり、さらに持っている権力・権限を手放す、というのは、個人的なレベルでも実践が難しいことではないでしょうか。1940年代に国家レベルでこの大転換を成し遂げたスウェーデン、やっぱりすごい国かもしれません。
 そして、日本での先は気が遠くなるくらいに長いようにも思いましたが、若くない者としては、これをやっていくしかないのだな、と気持ちを新たにしました。

『スウェーデン・デザインと福祉国家 住まいと人づくりの文化史』(太田美幸、新評論、2018年) 
 権力関係の弱い側にいる人たちも社会に参画しやすいようにする、という転換を進めたのは、1930年代に政権を取った社会民主党です。1970年代後半に政権を失うまで、誰もが平等で、上下なく、暮らせる家という「国民の家」というスローガンのもと、社会福祉制度の整備を進めていきます。
 スウェーデンの労働者教育の研究を専門とする著者による本書は、19世紀半ばから20世紀半ばにかけてのスウェーデン社会の変遷を「住まい」という視点から考えていきます。なぜ「住まい」から考えるのでしょうか。

 住環境は人間形成に大きな影響を与える、そのため、住まいを整えるということは「望ましい人間形成」のためのひとつの方法であり、本書で描かれる100年間は、その理念や方法がさまざまに模索される転換期だった。本書の冒頭で、著者はこのようなことを書いています。住環境の整備も大きな意味での「教育」である、という指摘に目を開かされながら、読んでいきました。すると、どのようにして「国民の家」という考えが生まれてきたのか、という疑問も解けていきました。

 今は暮らしやすい国ランキングで上位にあげられるスウェーデンですが、わずか100年ほど前には、多くの市民は貧しく劣悪な生活環境の中で暮らしていました。今では多くの移民を受け入れるスウェーデンですが、当時はアメリカへ移民する人が多く、あまりの多さに、国や自治体、民間団体が労働者の居住環境を整えようとしたそうです。
 機能的な住居をより多くの人に、という住宅政策が取られ、住まいを気持ちよく整えるという考えと習慣を国民が持つよう、各種団体による啓発活動を通じて意識的に行われていきます。結果、20世紀半ばには移民による流出は落ち着き、今度は受け入れる側にまわります。

 本書で軸となるのは、教育家、思想家として知られるエレン・ケイの「社会美」という思想です。人々が豊かで美しい環境で暮らすことでよりよい社会が実現できる、というケイの考えは、同じ頃に英国で生まれたアーツ・アンド・クラフト運動と似ています。このケイの考えに多くの人が共鳴し、思想が浸透し、政策にも取り入れられていった、という指摘をとても興味深く読みました。

 若者向け、あるいは、労働者向けの政策を打ち出すということの背景には、社会資源としての若者を、確保しなくてはならない労働力、生産力としての労働者を流出させてはいけない、という実利的な部分ももちろんあります。住環境の優劣が出生率に関係するという理論もあるそうです。それでも、その根元には「社会美」という精神があるからこそ、福祉国家として長く継続できているのではないか、という思いました。

 現在、多くの人が抱いているスウェーデン風の「理想の住まい」の源泉は国民的画家カール・ラーションの住まいにある、ということにも驚きました。国民的な風景を描いていたのではなく、この絵が国民的なものになっていったのか、と。

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(カール・ラーション『ある家』より「花のある窓辺」「食堂」) 

 本書では、各種の運動や取り組み、政策に対する批判や検証についても書かれています。たとえば、「理想の住まい」を浸透させようという試みは行き過ぎだったのではないか、という意見。あるいは、「国民の家」という理念には家父長制的なニュアンスがあった、という女性史研究家による指摘。これらも非常に興味深く読みました。「国民の家」については、著者は、「家」という言葉を使ったことによって社会福祉政策が広く受け入れられたという指摘も紹介したうえで、「結果的には、普遍主義的な理念のもとで展開された家族政策などを通じて、伝統的家族の閉鎖性は徐々に打ち破られていくことになった」としています。
 これはつまり、試行錯誤して、まずいところは修正しつつ、よりよいかたちを目指してきた、ということです。先に紹介した『若者からはじまる民主主義』でも、若者政策の変遷が記されていました。失敗はないに越したことはないですが、失敗したときに方向ややり方を変えられるかどうかが、大事なのではないでしょうか。

 理想を掲げて、変革のための声を意識的にあげる、意識的に構造を変える。グレタ・トゥンベリさんの行動は、スウェーデン社会が目指してきた国のありようを体現しているのだ、と改めて思います。

 とはいえ、当たり前ですが、実際にはそんなに理想どおりに進んでいることばかりではないようです。本稿の下書きを読んだ会のメンバーたちは現地からのリアルなコメントを寄せてくれました。いわく、住民の反対を押し切って行われている行政プロジェクトがある、議会の下部組織としての若者グループの意見が反映されないため若者たちが辞任してしまった自治体があるようだ、人口集中と過疎の二極化が起きている、などなど。さまざまな意味での格差も広がっているのかもしれない、とも感じました。「国民の家」のスローガンで謳われた「誰もが平等で、互いを気遣い、協力し助け合う」という理想はまだ実現されていませんし、実現は難しいものなのかもしれません。それでもやっぱりいつか実現できるよう、理想を掲げ続け、試行錯誤を続けていかなくてはいけないのだと思います。

(文責:よこのなな)


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